銃の歴史 (History of guns)
銃の歴史は、火薬の発見により始まります。 古代中国の4大発明は、羅針盤、火薬、紙、印刷と言われています。317年頃、中国の道教研究家・著述家の、葛洪(かつこう)が煉丹術(れんたんじゅつ)の理論書である『抱朴子(ほうぼくし)』に、硝石・松脂・木炭を一緒に加熱したときに生じる化学反応を記録しています。火器は火薬の燃焼性を利用するものから火薬の爆発性を利用するものへと移行していき、銃身も、紙筒から竹筒、木筒、青銅、鉄へと変化して行きます。
(中国古代兵器図冊を参照)
年表(Chronology)
- 15世紀
タッチホール式(Touch hall)
タッチホール式はヨーロッパにおいて知られる限り、最も初期の形式の火器です。弾丸を筒の先端から火薬とともに装填し、熱した石炭や焼けたL字形の鉄棒で火口に点火し発砲する方式でした。
タンネンベルク・ガン(tannenberg gun)
タンネンベルク・ガンはタッチ・ホール式の火器で、タンネンベルク城から発見された事でこの名称になり、現存する銃砲としては最古のものとされています。写真はレプリカ。左が銃口、右側に棒を差し込み、火口に点火し発砲します。(Picture from ULRICH BRETSCHER'S HOMEPAGE)
- 同年、サーペンタイン・ロック式(serpentine lock)
タッチ・ホ一ル式の発展型で、最初の火縄銃と言えるものです。ロックとは弾丸を発射するための点火方式を示した言葉です。人間が火口に着火させるため安定した狙いをつける事が出来ないといった欠点がありました。タッチ・ホ一ル式にサーペンタインと呼ばれるS字型の金具を、装着し、金具の片方に火種を取り付け、片方を引くことにより火薬に点火させ、弾丸を発射する機構の火器でした。(Picture from Wikipedia)
- 1410年、マッチ・ロック式(match lock)
マッチ・ロック式は火縄銃のことで、引き金を引くと火をつけた火縄が火皿に落ち、火はそこから口薬(くちぐすり)と呼ばれる火薬に引火し胴薬(どうぐすり)と呼ばれる装薬に伝わり、一気に燃焼、爆燃し弾丸を射出する仕組みになっていました。 - 1510年、ホィール・ロック式(Wheel lock)
ホィール・ロック式はマッチ・ロック式の発展型で、引き金を引くと、火蓋がスライドして黄鉄鉱が回転する歯輪に当たって火花を出し、その火花を火種として点火薬に着火して発砲する機構の火器でした。構造が複雑で高価なためマッチ・ロック式に変わる火器ではなかったようです。
- 1543年、鉄砲伝来
インドのゴアを出発して中国の寧波(ニンポー)に向かうポルトガル南蛮船が嵐で遭難して、8月25日に種子島南端の門倉岬(かどくらみさき)に漂着しました。これが日本にやって来た最初のヨーロッパ人だと言われています。島津氏の家臣で種子島の領主、「種子島 時尭」(たねがしまときたか)は、鉄砲2丁を2000両で購入。鍛冶職人「八板金兵衛」により複製が製造されます。1丁は島津氏を通して、将軍足利義晴に献上されました。これより、鉄砲は種子島銃とも呼ばれることになります。
16世紀中ごろのものとして「南蛮筒(なんばんづつ)」とよばれる外国から伝来した鉄炮や、それを真似て日本で作られた「異風筒(いふうづつ)」とよばれる鉄炮が現在も数多く残されています。それらの形が千差万別であることから、いろいろな場所に様々な形状の鉄炮がほぼ同時期に伝来したと言う説もあります。
- 1576年(天正4年)、日本で最初の大砲
キリシタン大名の大友宗麟が、日本に布教に来たポルトガル人宣教師達から火縄銃や硝石等と共にフランキ砲を輸入したとされ、日本で最初の大砲といわれる。輸入された二挺のフランキ砲はその大きな威力から「国崩し」と名づけられ、宗麟の臼杵城篭城の際は、その巨大な砲弾と威力で敵の島津軍を驚かせ、食い止めるのに役立った。 現在、臼杵城跡地の臼杵公園にフランキ砲の複製が置かれている。 - 1610年、フリント・ロック式(Flint lock)
フリントロック式は、ホィール・ロック式の発展型で、1610年〜1615年にフランスのマルタン・ル・ブルジョワ(Marin le Bourgeoys)が考案したものです。火縄の替わりに火打石と鋼鉄で、火花を出して点火薬に着火する方式の銃でした。
松本城フリントロック
- 1742年、ライフリング(rifling)の発明
英国の、ベンジャミン・ロビンス(Benjamin Robins)の考案により、螺旋状のライフリングが発明されます。ライフリングは、銃砲の銃身内に施された腔線を意味します。螺旋状の浅い溝で銃身内で弾丸に旋回運動を与え、ジャイロ効果により弾軸の安定を図り直進性を高める目的のものです。 - 1807年、雷管の原理を発明
スコットランドの牧師、アレキサンダー・ジョン・フォーサイス(Alexander John Forsythe)が、雷酸塩(Fulminate)を起爆剤とした、銃の新しい点火方法の特許を取得。外部から打撃を加えると発火するもので火門や点火孔をふさいでも衝撃によって点火させることができました。 - 1808年、紙の雷管を発明
スイスのサミュエル・ポーリー(Samuel Johannes Pauly)が、雷酸塩を詰めた紙の雷管の特許をフランスで取得します。 - 1812年、ペッパーボックスピストル(Pepper box pistol)
ペッパーボックスピストルは、回転式弾倉と銃身が一体化した形態のリボルバー拳銃の名称で、初期のペッパーボックスピストルは薬室と一体化した複数銃身を、鋳造して製造する方法がとられていました。鋳造の効果と、通常のリボルバー拳銃のように銃身と薬室を回転毎に精密に結合させる技術が必要ないため、内部機構も簡素化がされ安価な発射システムが大量に生産できたといわれています。 - 1815年、サミュエル・コルト誕生
サミュエル・コルト
- 1822年、パーカッション・ロック式(Percussion lock)
パーカッション・ロックは、アメリカのジョシュア・ショウ(Joshua Show)が考案したもので、薬室の上に突き出た火門に雷管のキャップを被せ、撃鉄で叩いて発火させる方式の銃です。
松本城パーカッション・ロック
- 1828年、ピン・ファイアー(Pinfire)の発明
フランスの、カシミール・ルフォシオ(Casimir Lefaucheux)が最初の金属薬莢ピン・ファイアー式を開発、1835年に特許を取得します。銅製の管体に火薬と雷管を詰め、底の部分から突き出したピンを強打すると内部にある雷管が激発し、火薬に点火する仕組みとなっていました。 松本城ピン・ファイアー(Picture from Armas on Line)
- 1830年、ショットシェル(Shot shell)の発明
フランスのカシミール・ルフォシオ(Casimir Lefaucheux)が散弾銃の実包、ショットシェル(Shot shell)を発明します。(写真は現在のショットシェル)
- 1831年(天保二年)、砲術家の高島秋帆が、最初のゲベール銃をオランダから輸入したとされています。その後、江戸幕府や藩が相次いでゲベール銃を購入し、各地で国産ゲベール銃の製造が始まります。
- 1836年、コルト社シングルアクションリボルバーピスト(Colt Single Action Revolver)を開発
サミュエル・コルトは、船の巻き上げ機の構造から弾倉だけが回転して銃身が1本でよいリボルバーを思いつき、アメリカ合衆国特許U.S.Patent 1,304を出願します。 内容は、銃身後方に装備された円筒形のシリンダーに5〜6発の弾薬を装填し撃針(ハンマー)を起こすことでシリンダーが回転。弾薬の装填、排莢作業をする事無く連続して発射が可能(シングルアクション)になるという画期的なものでした。以降ピストルはシリンダーを持つリボルバーが主流となりコルトリボルバーはその先進的な役割を担うこととなります。
U.S.Patent 1,304 - 同年、コルト社パターソンモデルの販売開始
サミュエル・コルトは、コルト・パターソンモデルを開発し、販売を開始します。このモデルは、発売当初は良好な成績にもかかわらず、売上は伸びず、生産数は3000挺と、商業的には成功しませんでした。しかし、その大部分は西部開拓者やテキサス・レンジャーに使用され、コルト・リボルバーは必須の武器となり、後に、テキサス・レンジャーのサミュエル・H・ウォーカー大尉とサミュエル・コルトとの共同作業で更なる改良が進められることとなります。
- 同年、ドライゼ銃(Dreyse Zundnadelgewehr)の発明
ドイツの銃工、ヨハン・ニコラウス・フォン・ドライゼ(Johann Nicolaus von Dreyse)によって発明された、世界初の実用的ボルトアクション小銃で、長い撃針が紙製薬莢を貫いて弾底の雷管を撃発させるものでした。撃発機構と弾薬から「ドライゼのニードルガン」とも呼ばれ、日本では火針銃または針打式と呼ばれました。
- 1839年、コルト社がアメリカ合衆国特許U.S.Patent 1,304を取得
U.S.Patent 1,304 - 1842年、パターソン・パテント・アームス会社破産
パターソン・パテント・アームス(Patent Arms Manufacturing)会社として知られているパターソン会社は、その器材の多くを競売にかけ、破産訴訟を開始します。
サミュエル・コルトは、防水弾薬のアイデア、港防御のための機雷と、サミュエル F. B.モースが発明した電報を米国政府に売ることに力をそそぎます。 - 1845年、コルト社の評判高まる
アメリカのドラゴンフォースやテキサスでインディアンと戦うことに従事していたテキサスレインジャーズは、インド軍隊を破る際に、コルト銃を使用しコルトの信頼性は大変高まりました。 - 1846年、メキシコ戦争が勃発
アメリカとメキシコの間で戦争が勃発し、アメリカ陸軍に大量のコルトピストルが使用されました。同戦争に参加していたアメリカ陸軍のサミュエル・H・ウォーカー大尉はより強力な火器の開発を目指してコルトと共同で作業に取りかかります。
後に、アメリカ合衆国軍需品部は新しく設計されたリボルバーのうちの1000丁を注文してきました。サミュエル・コルトはそれを「ウォーカー」と呼びました。コルトは工場なしで銃事業に戻りましたが、コネチカット州に工場を持っていた、綿繰り機で有名なイーライ・ホイットニーの息子イーライ・ホイットニー、Jr.( Eli Whitney, Jr.)の協力で、注文品は1847年中頃までに完成して、出荷されました。
戦争はアメリカが勝利し、現在のアリゾナ、カリフォルニア、コロラド、ニュー・メキシコ、ネバダ、ユタ、ワイオミング各州にあたる地域はアメリカの領土となり、この結果、メキシコは領土の半分以上を失います。 - 1847年、コルト社はパーカッション式シングルアクションリボルバーM1847を開発。
M1847は通称「コルト・ウォーカー」と呼ばれ、パターソン・モデルをテキサス・レンジャーのサミュエル・ハミルトン・ウォーカー大尉の助言をもとに改良された銃です。内容は、口径・銃身長を大きくし、装弾数を増やす事、複雑なフォールディング・トリガー(撃鉄を起こすと引き金が降りてくる)を廃止する、安全のため用心金(トリガーガード)を付ける、などでした。
- 同年、リムファイアー(Rimfire)の発明
フランスの銃工、ルイ・ニコラス・オーギュスト・フロベール(Louis Nicolas August Flobert)が、リムファイアー(Rimfire)を発明。リムファイアーは、銅製の莢底の周囲に雷汞(らいこう)を流し込み固めた薬莢で、莢底の縁のどこを撃っても撃発しました。後にスミス&ウェッソン社が、この特許を買い取ることになります。
U.S.Patent 11,496
- 1848年、コルト社M1848 が、アメリカ陸軍の制式拳銃となる
M1848は、通称ドラグーン・モデルと呼ばれ、ウォーカー・モデルと同じ44口径のパーカッション式シングルアクションリボルバーで、銃身を9インチから7インチに短縮し、軽量化を図ったモデルです。ファースト・モデルは7,000挺が作られ、1850年にはセカンド・モデルが2,700挺、、1860年にはサード・モデルが10,500挺製造されました。
- 1851年、サミュエル・コルトが米英で事業展開を開始
サミュエル・コルトは、イングランドにアメリカ初の工場を設立します、それにより国際的な市場で彼の評判は高まりました。
次に、彼は、コネチカット州、ハートフォードのコネチカット川の岸に面したサウスメドースの土地を購入。そこは、水害が多く大変安い価格で販売されていました。、長さ2マイルの防壁は、実際に250エーカーの2倍多く費用がかかりましたが、1855年に操業の新しい工場は、川の抑制されていない流れから保護されていて、当時の最高水準の工作機械を導入した工場でした。これによってコルトのピストルは職人の手作業による工芸品から統一されたパーツ規格を持つ工業製品の水準となり優れたパフォーマンスを実現しました。 - 同年、コルト社M1851を開発
M1851は、パーカッション式シングルアクションリボルバーで、36口径や38口径のものは「M1851ネイビー」(海軍)と呼ばれ、44口径のものは「M1851アーミー」(陸軍)と呼ばれました。 コルト社製のパーカッションリボルバーの中では最も売れた銃で、南北戦争で大量に使用されました。
- 1852年、スミス&ウェッソン社設立
スミス&ウェッソン(Smith & Wesson)、通称S&Wはホーレス・スミス(1808年 - 1893年)とダニエル・ウェッソン(1825年 - 1906)が設立した、銃器メーカー。マサチューセッツ州スプリングフィールドに本社があります。
- 同年、スミス&ウェッソン社が、リムファイアーの特許を購入
スミス&ウェッソン社は、フランスの銃工フロベールにより発明されたリムファイアーの特許を買い取ります。
U.S.Patent 11,496 - 1853年、コルト社ロンドンでリボルバーの製造を開始年
- 1854年、スミス&ウェッソン社が、経営権を売却
資金破綻により経営権を売却、社名がボルカニック・リピーティング・アームス(Volcanic Repeating Arms)社となります。 - 1855年、ジョン・モーゼス・ブローニングが誕生
ジョン・モーゼス・ブローニング
- 同年、コルト・ファイアー・アームズ株式会社、認可
コルト社は、コネチカット州でコルトファイアーアームズ株式会社(Colt's Patent Fire Arms Mfg. Co.,)として編入。コルト社は当時最高水準の工作機械を導入し、年間5000丁の生産能力がありました。当時のピストルは職人の手作業による工芸品でしたが、パーツを規格統一し優れたパフォーマンスを実現しました。サミュエル・コルト曰く『マシンで生産することができないものは何もない』と。 - 同年、スミス&ウェッソン社を再建
- 1856年、サミュエル・コルトの特許U.S.Patent 1,304が終了
U.S.Patent 1,304 - 1857年、スミス&ウェッソン社リムファイアー・リボルバーを発表
スミス&ウェッソン社が、ローリン・ホワイト(Rollin White)の貫通シリンダーの特許を買い取り、初めてのリムファイアー・リボルバーS&Wモデル1を発表します。
U.S.Patent 12,649
- 同年、コルト社ロンドンの工場を閉鎖
- 1861年、スミス&ウェッソン社Model 2アーミーを発売
Model 2アーミーは、.32 ロング・リムファイアーの6連発。 南北戦争で大量に使用されました。1866年、1月23日薩摩藩士を装い宿泊していた坂本龍馬と長州藩士、三吉慎蔵ら4名を捕らえようと、百数十人の伏見奉行配下の捕り方が寺田屋を急襲しました。龍馬は所持したこのモデルの銃を5発、発射して多数の捕り方相手に大乱闘となり、手傷を負いながらも逃げのびたと言われています。
- 1862年、サミュエル・コルト死去
1月10日にサミュエル・コルトが47才の生涯を終えました。彼は生涯に40万挺以上の武器を生産して、1500万ドル(今の価値で3億ドル)の資産を彼の子孫に残したとされています。 - 1866年、スミス&ウェッソン社の金属薬莢の特許が終了
コルト社やレミントン社は、それぞれ金属薬莢式リボルバーを発表します。
U.S.Patent 11,496 - 同年、ベンダルプライマー(Berdan primer)
ウーリッチ造兵廠の発明家ハイラム・ベンダル(Hiram Berdan)にちなんで命名されたセンターファイアーのカートリッジで、米国特許U.S.Patent 53388を取得しています。 衝撃を加えられると発火し、発射薬(Gunpowder)に着火して弾丸を発射させる構造で、撃針の衝撃を受け止め銃用雷管(Percussion cap)を発火させる発火金(はっかがね)が、薬莢と一体になった形式でした。発火金が中央にあるため、噴火口は発火金の周囲に、2〜3カ所開けられていました。雷管を薬莢内に入れたために暴発率が低下したことが大きな利点でした。
U.S.Patent 53,388 - 1867年、コルト社ガトリング機関銃の生産を開始
ガトリング砲は、アメリカの医師リチャード・ジョーダン・ガトリング(Richard Jordan Gatling)の発明で、銃軸の周囲に12本の銃身を配置し、ハンドルを手回しで回転させ、連続的に装填・発射・排莢を行う構造を持っていました。銃身一本当たりの発射数が少なくて済むため、火薬の燃焼と摩擦によって発生する熱で銃身に与える影響が少なく、現在でもこの機構が使用されています。
- 1869年、ボクサープライマー(Boxer primer)
王立砲兵隊兵舎(Royal Artillery Barracks)のエドワード・ボクサー(Edward Boxer)にちなんで命名されたセンターファイアーのカートリッジで、1866年にイギリスで特許化、1869年に米国特許U.S.Patent 91,818を取得します。
構造はベンダルプライマー(Berdan primer)と同様ですが、発火金が内蔵された雷管の形式で、噴火口は発火金の中央に、1カ所開けられていました。雷管を交換すれば発火金も交換する事になるため、ベンダルプライマーよりリロードが容易でした。リロードが一般的だったアメリカでは主流となります。
U.S.Patent 91,818 - 1869年、大陸横断鉄道が完成
アメリカ西部の発展に伴い、東部と西部を結ぶ鉄道建設が行われ、 ユニオンパシフィック鉄道とセントラルパシフィック鉄道による路線が、ネブラスカ州オマハからカリフォルニア州サクラメントまでの 2,826 km(1,756マイル)を結び、最初の大陸横断鉄道が完成。これによって西部の開拓と国内市場の統一がますます促進され、1890年代にはフロンティアが消滅します。 - 1870年、スミス&ウェッソン社No・3モデル・リボルバーが完成
スミス&ウェッソン社は軍用として活用できるNo・3モデル・リボルバーを完成します。 - 1873年、コルト社シングルアクションアーミー(SAA)を開発。
コルトシングルアクションアーミーは、今も生産されていて、通称SAA又はピースメーカーと呼ばれています。 1892年から20年間アメリカ陸軍の制式拳銃でした。(アメリカ陸軍の正式名はM1873)。
- 1875年、コルト社SAAが陸軍制式拳銃となる
コルト社が開発したコルトシングルアクションアーミー(SAA)がトライアルでS&W モデル3を押さえ、陸軍制式拳銃となります。
コルト社は1891年までに37063丁の7.5インチバレルのSAAをアメリカ軍に納入することとなります。 - 1880年、明治13年に村田経芳(むらたつねよし)により、日本初の元込式ライフル銃が発明され、村田銃とよばれます。
- 1882年、ブローニングが、オグデンに銃器製造所を設立
- 1883年、ウィンチェスター社とブローニングの共同事業開始
4月 コネチカット州ニューヘブンのウィンチェスター社(Winchester Repeating Arms Company) の副社長T.G.ベネット、とマネージャは、ユタ州のオグデン、に来て、ブローニングとの共同事業の基礎を築きます。
取引の一部として、シングルショットライフルをウィンチェスターに販売。後のウインチェスターモデル1885となります。 - 1887年、スウェーデンのアルフレッド・ベルンハルド・ノーベル(Alfred Bernhard Nobel)が、窒素量約12%のニトロセルロースとニトログリセリンを混ぜて練って成形し無煙火薬をつくりバリスタイト(Ballistite)と呼びました。
- 1892年、コルト社のM1889がアメリカ軍に正式採用
M1889は38口径(38ロングコルト)6連発のダブルアクションリボルバーで、シリンダーはスイングアウト方式が採用され、口径もより連続射撃に適した38口径が選択されました。シリンダは左回転、分解プレートは現在のコルトとは反対の右側でした。陸軍に採用されSAAの後継となり、M1889はシリーズでM1902まで製作されました。
- 1893年、ガス圧利用の自動銃が発売
ドイツのヒューゴ・ボーチャードにより、弾丸を飛ばす火薬のガス圧で後退する遊底により、空薬莢を薬室から抜き取り再び元の位置にバネで戻るときに次の弾丸を薬室に押し込む方式の最初の実用自動拳銃が完成されて売り出されました。このアイデアは、オーストリアのシェーン・バーガーが最初に実現しましたが、商品化はされませんでした。
この改良型がルガー・ワルサー・モーゼル・ブローニングへと発達して行きます。 - 1897年、ブローニングが、特許U.S.Patent 580,924を取得 オートマチック拳銃3種、ブローバック式、回転ロック式、パラレルルーラ式。 後のコルトM1900、FN
M1900 となります。
U.S.Patent 580,924 - 同年、ブローニングとFN社が製造認可の契約を調印
6月 ブローニングとベルギーのFN社は合衆国以外のすべての市場のブローバック.32口径セミ・オートマチック・ピストルの製造認可をする契約を調印。生産は1899年に開始され、FN モデルM1899ピストルとなります。 - 1899年、FN ブローニングM1900発売
FN ブローニングM1900は、ジョン・M・ブローニング(John Moses Browning)の設計で、FN(Fabrique Nationale)社が製作した自動拳銃です。M1900は、ジョン・ブローニングの最初の市販モデルとなった銃で、1899年から製造され、M1910が登場するまでの10年間でおよそ50万丁が製造されたと言われています。機構は後のコルト社製品に見られる機構のほとんどが組み込まれていました。口径は.32でこの銃用に作られた.32ACPを使用します。装弾数は7発。ストレートブローバックのストライカー方式を採用していました。
- 1900年、コルト社M1900を発売
コルトM1900は、ジョン・M・ブローニングの設計で、コルト社が製作したアメリカでは初めての自動拳銃です。この銃には、 パラレル・ルーラー・ロッキング機構 (ティルトバレル式ショートリコイル)と呼ばれるリンク式のショートリコイルが取り入れられていました。
- 1902年、ブローニングとウインチェスターの共同作業が終了
ブローニングは自動式散弾銃の市場が無いとするウインチェスターと意見の相違により19年間にわたる関係が終了しました。これによりオート5はFN社で発売することとなります。 同年、コルト社はM1902を発売
M1902は、M1900の改良型で、ランヤードリング及びスライドストップの追加、、慣性打撃を行って発火を確実にするため、撃針を短くする、グリップを硬質ゴムなどくつかの改良がされました。
- 1903年、コルト社M1903ポケットハンマーを発売
コルトM1903ポケットハンマーは、ジョン・M・ブローニング(John Moses Browning)の設計で、コルト(Colt Patent Firearms)社が製作した自動拳銃です。M1902の全長を短くした銃です。
- 同年、コルト社M1903ポケットハンマーレスを発売
コルトM1903 ポケットハンマーレスは、ジョン・M・ブローニング(John Moses Browning)の設計で、コルト(Colt Patent Firearms)社が製作した自動拳銃です。コルト式自動拳銃1903ポケットHammerless.32に値するもの(または7.65 mm)は、1903年から1945年までコネチカット州ハートフォードで製造されました。グリップは、格子縞の硬質ゴムのグリップで出され、1924年に、格子縞のクルミに変わりました。1908年には、.38ACP弾を使用するM1908が発売されます。出荷数量は543,000丁。
- 同年、FN ブローニングM1903を発売
FN ブローニングM1903は、1902年にジョン・M・ブローニング(John Moses Browning)によって設計され、FN(Fabrique Nationale)社で製造された自動拳銃です。 M1903は9mmカートリッジを使用し、ベルギー・オランダ・トルコ及びスウェーデンの警察隊と軍隊に採用されました。製造はFN(Fabrique Nationale)社でおよそ60,000丁、ミシンで知られているスウェーデンのハスクヴァーナ(Husqvarna produced)で、94,000丁が製造されたと言われています。またM1903は、.32ACPを使用したコルトM1903小型ピストルとして、コルト社でも製造されました。
- 1904年、ジョン・ブローニングが世界初の反動利用式セミオート散弾銃、ブローニング・オート5を発表。
- 1905年、コルト社M1905を製造
M1905は、1903の改良型で、.45口径となり、アメリカ合衆国陸軍制式拳銃の採用試験第1次審査(トライアル)へ提出された銃です。 ブローニングが、45ACPと呼ばれる45口径の弾丸の特許U.S. Patent 808,003を取得します。
コルトM1905 U.S.Patent 808,003
- 1906年、アメリカ陸軍制式拳銃の採用試験を開始
アメリカ兵器廠は、アメリカ陸軍制式拳銃の採用試験トライアルを開始。
トライアルにはコルト(Colt)、ルガー(Luger)、サベージ(Savage)、ノーブル(Knoble)、ベルグマン(Bergmann)、ホワイトメリル(White-Merrill)とスミス・アンド・ウエッソン(Smith & Wesson)の7社が参加。
自動拳銃ではコルト(Colt), サベージ(Savage)の2社が選定に残ります。
サベージ(Savage) トライアル - 1907年、コルト社M1907を発売
M1907は、1905の改良型で、パラレル・ルーラー・ロッキング機構、最後製品。グリップ・セフティーが装備されました。ミリタリーモデル1907を、コマーシャル用に製造販売を始めます。
- 1909年、コルト社コルトM1909を製造
M1909は、1907の改良型で、パラレル・ルーラー・ロッキング機構の銃口部側リンク無くし、バレルブッシングでバレルを支える方式に改造されました。以降、ティルトバレル式ショートリコイル、あるいはリンク式ショートリコイルなどと呼ばれています。
- 1910年、FN ブローニングM1910を発売
FN ブローニングM1910は、FN ブローニングM1900の後継として開発され、FN社より発売されました。M1910には.32ACPモデルと.380ACPモデルがあり、.32ACPモデルの装弾数は7発、.380ACPモデルの装弾数は6発です。
- 1911年、コルト社が、U.S. Patent 984,519を取得、45口径セミ・オートマチック・ピストルの特許 。それは、75年間、アメリカ合衆国の公式軍用携帯用武器となります。
U.S.Patent 984,519 - 同年、コルト社M1911がアメリカ軍に制式採用
M1911は、アメリカの銃器設計者であるジョン・M・ブローニングの設計に基づき、コルト社によって軍用に開発された自動拳銃です。1906年に始まったアメリカ合衆国陸軍制式拳銃の採用試験(トライアル)により、1911年3月29日、.45ACPと共に、アメリカ合衆国陸軍のU.S.ピストル、口径.45、モデル1911(COLT U.S. PISTOL Cal. .45, Model 1911)と名付けられ、アメリカ合衆国陸軍制式拳銃となります。1926年に改良が加えられた「M1911A1」となり、その後1985年、ベレッタM92Fが制式採用されるまで、70年以上にわたってアメリカ軍の制式拳銃でした。今なお、一部の特殊部隊では使用され続けています。
- 1926年、ブローニングが、U.S. Patent 1,578,638を取得、後の、ブローニングスーパーポーズ上下散弾銃。
U.S.Patent 1,578,638 - 同年、ブローニング死去
11/26 ブローニングが、FN 社内にて心不全のため71才の生涯を終えます。 - 同年、コルト社M1911がM1911A1に改良
M1911A1は、フレーム・メインスプリングハウジング・グリップセイフティー・トリガ・マガジン及びハンドストック(フェノール樹脂の成形品)等に一部改良を加えたM1911A1に切り替わり、1927年(昭和2年)から改良型のM1911A1に生産が移行しました。グリップセーフティの改良は、親指と人差し指の付け根の部分がハンマーとグリップセイフティーの間に挟まり怪我をした為と言われています。第2次世界大戦中は、コルト社以外で、スプリングフィールド造兵廠、レミントンランド社、シンガー工業、イサカ銃器会社、ユニオン・スイッチ&シグナル社などで生産されました。 この銃は、第2次世界大戦中に製造されたコルト社製です。約40万丁生産されたと言われています。
- 1927年、ブローニングが、特許U.S.Patent 1,618,510を取得
基本設計はブローニング、最終的な設計はFN社のデュードネ・J・サイーブが行い、FN社で完成されハイパワーとなります。それは、ブローニングの最後の拳銃作品となりました。
U.S.Patent 1,618,510 - 1933年、コルト社ナショナルマッチを発売。
- 1934年、ベレッタM1934がイタリア軍の制式拳銃として採用
- 1938年、FBIがコルト.38スーパーオートを採用
- 1958年、ブローニング兵器会社を設立
ブローニングが70%、FNが30%の出資で、カナダにブローニング兵器会社を設立。 - 1965年、ブローニングが日本のミロクとの交渉を開始。
- 1970年、コルト社MKW70モデル・ピストルの生産を開始
1983年まで製造。
- 1977年、ブローニング社(Browning Arms Company)の公開株の90%を、FNとミロクが取得
- 1983年、コルト社MKW80モデル・ピストルの生産を開始
- 1985年、ベレッタM92が米軍制式採用ピストルに決定
ベレッタ M9 (92F)は、1985年1月14日、コルトM1911A1に変わりアメリカ軍の制式軍用ピストルM9に制定されました。 ダブルアクション、プロップアップ式ショートリコイル。使用装弾は9mm×19(9mmパレベラム)を使用。
■口径:9mm ■全長:217mm ■銃身長:125mm ■装弾数:15 ■重量:975g" 1985年、M1911A1に変わる米軍制式採用拳銃のトライアルではベレッタM92とSIG P226を含む7モデルが提出され、最終的にベレッタM92が米軍制式採用ピストルに決定、この際に米軍から「M9ピストル」の制式採用名が与えられました。
- 1986年、コルト社の持つ1911のパテントが終了
以後、多くのメーカーがM1911のカスタムワークスとして多くのモデルを誕生させました。
M1911のメーカー
参考
COLT HISTRY (http://www.coltsmfg.com/cmci/history.asp)
Harold L. Peterson 『A MAN TO REMEMBER』
『What is the historical timeline for Browning』
他