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フィリピンの話題 (Topics in the Philippines)

フィリピン大統領選挙(Philippine presidential election)

2010年6月10日、、フィリピン共和国第14代大統領グロリア・マカパガル・アロヨ(Gloria Macapagal Arroyo)大統領の後任を選ぶフィリピン大統領選が、全国3万7千ヶ所の投票所で行われました。登録有権者数は約5072万人。 中央選挙管理委員会の結果発表によると、ベニグノ・アキノ3世(Benigno Aquino III) が得票率41.85%(13,750,284票)で1位でした。2位は、ジョセフ・エストラダ(Joseph Estrada)前大統領で26.47%(8,697,356票)、3位は、マヌエル・ビリヤール(Manuel Villar)で15.13%(4,970,926票)でした。
ベニグノ・アキノ3世ベニグノ・アキノ3世は、1960年2月8日オーストラリアで生まれました。父は、1983年8月21日マルコス独裁打倒のため帰国したところマニラ国際空港で暗殺された故ベニグノ・アキノ上院議員。母は、夫の遺志を継いで1986年の「ピープルパワー革命」でマルコス政権を倒して民主化を成し遂げた故コラソン・アキノ元大統領
1965年からマニラのアテネオ大学(Ateneo de Manila University)に通い、1981年に卒業します。卒業後、マサチューセッツ州ニュートンで亡命中の家族に加わります。1983年、彼の父が暗殺され、直後に彼は家族とともにフィリピンに帰国し、民間のいくつかの会社で働きます。1998年に、彼はタルラック(Tarlac)行政区の第2地区の下院議員として、下院に当選し、2001と2004年にも再選されます。下院議員を3期務めた後、任期制限のため2007年には14回目のフィリピン会議で、上院議員に初当選します。2009年8月1日、彼の母、コラソン・アキノが亡くなり、多くの人々は、ベニグノ・アキノ3世に大統領に立候補するよう支持を始めます。2009年9月9日、ベニグノ・アキノ3世は公式に2010年の大統領選挙に立候補します。彼は増税に強く反対し、国内産業の保護を訴え、「汚職なけれれば貧困なし」をスローガンに、中間層、高所得層に広く支持されました。
2010年6月30日、フィリピンで大統領就任式が行われ、ペニグノ・アキノ上院議員(愛称「ノイノイ」)が、グロリア・マカバガル・アロヨに代わって、新しく大統領となります。

(Photograph from AFPBB News)

内容(Contents)

フィリピンの国会

フィリピンの国会は上院(Senate)定数24と、下院(House of Representatives)定数250以内からなります。このうち上院は全国区で選出され、任期は6年、3年毎に半数が改選されます。下院は選挙区から小選挙区制で選出される地区代表議員と、全国区の政党名簿(Party List)から選出される政党代表議員50人以内がいます。下院議員の任期は3年で、連続4選禁止と定められています。 予算案や法案は下院で発議・議決され、上院での修正提案・議決を経て、大統領へ送られます。大統領は法案の拒否権と修正提案権を持っています。上院議員は全国区から選出されること、定数が少ないこと、条約の承認権を保有することから、1人当たりの持つ影響力は下院議員より大きく、歴代大統領14人のうち、9人が上院議員経験者でした。下院議員は各地の地主層を中心に伝統的な有力者が多く、選挙民からは地元への事業や国家資源が期待されます。下院に議席を持つ政党は、選挙区議員を持つ10の主要政党と、政党名簿による議席をもつ16の少数政党があります。主要な政党としては、1907年にフィリピン最初の政党として結党され、歴代数多くの大統領を生み出したなナショナリスタ党(Nationalista Party)下院8議席、上院4議席、1945年にナショナリスタ党から分裂する形で結党され、ケソンキリノマカパガル大統領を輩出したリベラル党(Liberal Party)下院16、上院4議席、1991年にナショナリスタ党から分裂することにより結党され、エストラーダ大統領の支持基盤でもある、連立ナショナリスタ・ピープル(Nationalist People's Coalition)下院28議席、上院2議席)、そして、1991年、ラモス大統領により結党され、2010年アロヨ大統領が所属する最大与党ラカス党(Lakas Christian Muslim Democrats)下院141議席、上院4議席などがあります。フィリピンの場合、政党に関する分類はあまり意味を持ちません。政党間に政治理念の違いは無く、最終的には大統領が所属する政党が絶対多数を占める最大与党となります。フィリピンでは大統領のもつ権限が極めて大きく。具体的には行政府の長としての行政統括権のほか、国軍統帥権、戒厳令発動権、条約締結権、海外からの借款の締結権、予算案を含む法案の拒否権、上級公務員の任命権など、非常に広範囲にわたります。大統領は国家資源の配分を独占的に握っていて、これらの国家資源へアクセスするためには、大統領に近づくことが必要となり、下院議員の多くはどの政党から立候補し、当選しても、そのときの大統領が所属する政党へと鞍替えするため、大統領が所属する政党が事後的に最大与党となります。

コラソン・アキノ元大統領

コラソン・アキノ元大統領は1986年のエドゥサ革命で第11代大統領となり1992年まで任期を務めたフィリピン初の女性大統領です。1983年に暗殺されたアキノ元上院議員の妻であったことが彼女を大統領へと導きました。しかし、在任中は度重なる国軍改革派による軍事クーデターや1990年のルソン島大地震、1991年のピナツボ火山の噴火に見舞われるなど、決して恵まれた環境ではありませんでした。特に、復活した旧既得権層、そして彼女を支持した左派・民主勢力の狭間に立たされ思うような政権運営はできなかったと言われています。旗印だった農地改革も期待されたほどには進展しませんでした。彼女自身がフィリピン有数の大地主であり、財閥でもあるコファンコ家出身であることが農地改革を後退させたとして左派から批判を浴びました。経済的には国有企業の民営化や規制緩和など自由化政策を進めましたが、それが軌道に乗り、フィリピン経済が発展を始めるのは彼女の退任後のラモス政権からでした。政界引退後も、自由、民主主義、平和、そして男女平等の象徴として一定の影響力を持ち続けました。政治的発言として、2008年12月、エストラーダ前大統領に対し「2001年の行動(エストラーダを退陣させたこと)は誤りでした。私たちみんなが間違えたのです。許してください」と謝罪し、アロヨ大統領の退任を求めたことで知られています。