フィリピン共和国 (Republic of the Philippines)
フィリピンの歴史
1521年3月28日、ポルトガルのフェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan)一行が、フィリピンのセブ島に上陸 し、1565年にスペインのミゲル・ロペス・デ・レガスピ(Miguel Lopez de Legazpi)率いる第6次遠征隊が、フィリピンの征服とキリスト教による統一を果たした後の、約333年間のスペインによる植民地化と、 1899年2月4日に起きた、米比戦争後の、48年間のアメリカによる植民地化と、太平洋戦争における日本の3年間の侵略の歴史でした。イスラムのフィリピン(Philippines of the Islam)
13世紀までは、東南アジアの大部分はイスラム(Islamized)でした。1380年頃に、イスラム教徒の学者ムクダム(Mukdum)が、イスラム教を説くためにマレー半島からスールー諸島に到着します。彼は、スールーにおける最初のモスクを建設します。1450年頃には、イスラム教徒の学者アブーバクル(Abu Bakr)がスールーで、イスラム教君主国の形態を確立します。そして、イスラム教はスールーのすべての地域に広まります。セリフ・カブングスアン(Serif Kabungsuan)は、ミンダナオで最初のイスラム教君主国を起こします。マレー人のトレーダーは、マニラ、バタンガス、ミンドロとパンパンガ(Pampanga)の地方でイスラム教を広めます。
スペイン人が16世紀の前半の間、フィリピンに到着したとき、ルソン島の多くの地域はすでにイスラム( Islamized)でした。 しかし、イスラム教の更なる広がりと影響は、1665年に始まるフィリピンの征服とスペインの植民地化で大きく変わります。
マゼランの上陸(landing of Magellan)
1521年3月6日にポルトガルのフェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan)一行はグアムに到着、食料の補給を行い3月16日にサマール鳥南のホモンホン島(Homonhon Is.)に上陸してから後に3月28日、フィリピンのセブ島に上陸し、セブの領主であったラジャ・フマボン(Rajah Humabon)を改宗させ、その王妃と約400人住民たちは1521年4月14日に洗礼を受け、最初のフィリピンのキリスト教徒となったと言われています。マゼランは、周辺の島々にも、キリスト教への改宗と服従を要求しましたが、マクタン島の領主 ラプラプ(Lapulapu) が抵抗し、マゼランとの戦いとなり4月27日マゼランは戦死します。
スペインの侵略(Invasion of Spain)
マゼランによりヨーロッパに知られるようになったフィリピン諸島に対して、スペインは次々と遠征隊を派遣しますが、モロ(moro)の抵抗により第5次遠征隊まで失敗に終わります。しかし1565年にミゲル・ロペス・デ・レガスピ(Miguel Lopez de Legazpi)率いる第6次遠征隊が、フィリピンの征服とキリスト教による統一を果たします。カビーテ暴動とゴンブルザ事件(Cavite riot and gomburza case)
1869年6月23日に赴任したカルロス・マリア・デ・ラ・トレ(Carlos Maria de la Torre y Nava Cerrada)総督は自由主義派の将軍でした。彼は自由主義的な新スペイン憲法をフィリピンにも適用することに務め、政治犯を解放し、さらに教会や修道士の批判を支持しました。彼はリベラルな法律を課すためのリベラルと考えられ、フィリピン民衆から大歓迎されました。彼はまた100年以上も続いていた農民暴動を話し合いにより解決もしました。(Photograph from flickr.com)
1870年スペイン本国で君主体制が復活すると、デ・ラ・トレは解任され、新しく赴任したラファエル・デ・イスキェルド(Rafael de Izquierdo y Gutierrez)提督は検閲を復活、政治的会合を禁止するなどして、フィリピンは元の専制へと戻りました。1872年1月に、カビーテの海軍兵器工場に働く労働者が、従来免ぜられていた税を新たに課税されたことにより反乱を起こします。イスキェルド提督は、暴動はスペイン人の修道士によって、政府転覆運動を扇動したものであるとし、暴動とは関係のないフィリピン人多数と、民衆の信望が厚かった三人のフィリピン人神父、ゴメス神父(Mariano Gomez)・ブルゴス神父(Jose Burgos)・サモラ神父(Jacinto Zamora)を「反逆扇動罪」で処刑しました。 ゴンブルザ(gomburza)は、三人の神父の頭文字をとったものです。 3人のフィリピン人聖職者に対する行為に、スペイン人に対する各地の反乱は激しさを増しました。
プロパガンダ運動の始まり(Propaganda movement)
スペイン本国では当時、個人の権利や言論、集会、出版、宗教の自由が広く認められていました。しかし、スペインの一部であるはずのフィリピンにだけは、それが全く認められず、民族主義者や自由主義者の取り締まりはひどくなる一方で、そういった活動家はスペイン本国や欧州に脱出していきました。彼らは、フィリピン人を啓蒙すると同時に、スペイン本国と全世界へ向けて「スペイン統治の差別性とフィリピンの現状」を新聞や小説などの形で精力的に訴えていきました。この活動は「プロパガンダ運動」と呼ばれ、その中心となったのがホセ・リサール(jose rizal)や マルセロ・デル・ピラール(marcelo H. del pilar)でした。1887年、リサールは「ノリ・メ・タンヘレ(Noli Me Tangere)」、我に触れるなをベルリンで公刊し、後に、アメリカを経由してイギリス・パリと移動し、1891年ベルギーのヘント(Ghent)で彼の第2の小説「エル・フィリブステリスモ」(El Filibusterismo)反逆を出版します。両方ともスペイン語で書かれていますが、スペイン圧政下に苦しむ植民地フィリピンの現状が克明に描き出されていて、フィリピン人の独立への機運を高めたと言われています。リサールは『ここに書かれていることはすべて事実である。証拠もある』」と訴えました。
写真左からホセ・リサール(jose rizal)、マルセロ・デル・ピラール(marcelo H. del pilar)、マリアノ・ポンセ(Mariano Ponce)
デル・ピラール(marcelo H. del pilar)は1882年、リサールがスペイン語で呼びかけたのに対し、タカログ語の新聞「ディアリオン・タガログ(Diariong Tagalog)」を発行し、愛国主義者や革新主義者の記事を掲載しました。1888年、当時スペインの支配下にあったフィリピン国民の意識改革、地位向上、人間の尊厳への目覚め、自由の確立などの活動がスペイン人修道士や官憲の怒りを買い、スペインのバルセロナに向け逃亡します。リサールは政治的独立を目指す革命志向家では無く、フィリピン人たちの生活改善を願う改革者でした。 バルセロナで、スペイン在住のフィリピン人留学生たちを組織して、デル・ピラールと共にプロパガンダ運動を始め、1888年に、雑誌「ラ・ソリダリダード(La Solidaridad)」連帯を創刊します。フィリピン同盟(La Liga Filipina)
ラ・リガ・フィリピナ(La Liga Filipina)フィリピン同盟は、1892年7月2日、リサールによって組織されました。目的は次の内容でした。- フィリピンの群島全体を一つの強健な組織に纏めること。
- 欲求と必要に対する相互扶助。
- 全ての暴力と不正義からの保護。
- 技術的教育、農業、商業の奨励。
- 改革の研究と応用。
カティプナンの結成(Organization of katipunan)
リサールの逮捕により、フィリピン同盟は、フィリピン同盟の原則を主張する、平和的な改革派と、平和的改革運動ではフィリピン人が自由を獲得することはできないと主張する、革命派に分裂します。 ボニファシオは改革運動に見切りを付け、1892年7月7日、ボニファシオ、ラディスラオ・ディワ(Ladislao Diwa)とテオドロ・プラタ(Teodoro Plata)は、フィリピン同盟のメンバー、デオダート・アレジャノ(Deodato Arellano)、バレンチ−ネ・ディアス(Valentine Diaz)、ホセ・ディソン(Jose Dizon)をマニラ市トンドに集め、スペインからの独立を得るための、武装反乱に備えることを訴え、革命組織カティプナン(katipunan)を結成します。しかしカティプナンの存在はまもなくスペイン当局の知るところになり、1892年8月19日には官憲による弾圧が開始され、ボニファシオらは8月30日に武装蜂起を開始し、これにより独立革命が始まります。当初、マニラ市内の戦いではカティプナンは苦戦しますが、マニラ近郊のカビテ州に革命が波及すると独立派は勢力を巻き返し、10月にはこの地方のカティプナン組織をまとめていたエミリオ・アギナルド(emilio aguinaldo)らによってカビテ州東部の支配が確立され、ボニファシオを中心とするカティプナン組織から分離して独自の勢力を形成します。
1896年8月26日、カティプナンのメンバーがマニラ郊外バリンタワク(Balintawak)で反乱の証としてセドゥラス(住民税証明書)を破り、ボニファシオは武力闘争を宣言します。8月26日はバリンタワクの叫び(Cry of Balintawak)として、スペイン統治時代、植民地支配に抵抗を開始した記念日とされています。現在、ケソン市バリンタワクに記念碑があります。
(Photograph from Wikipedia)
ホセ・リサール(jose rizal)の死(Death of jose rizal)
1896年7月、リサールは流刑生活が終わり、キューバでのスペイン軍医を志願してスペインに到着した翌月の8月26日、カティプナン軍は各地で政府軍との戦闘に突入しました。 当時のフィリピンのスペイン軍は3000名ほどで、そのうちスペイン兵は300名で、あとはフィリピン兵でした。大多数がフィリピン人のスペイン軍は苦戦していました。そこでスペイン当局は、反乱容疑者を端から逮捕し、処刑することで反乱を鎮めようとしました。リサールは反乱の首謀者として逮捕され、マニラに送還されサンチャゴ要塞(Fort_Santiago)に投獄の後、裁判により、銃殺刑が宣告されます。国民的英雄を罪なくして処刑されたフィリピン人たちの反感は、よりいっそう強まり、反乱は激化しました。ホセ・リサール(jose rizal)
リサール公園
ビアクナバト共和国(Biacnabat republic)
独立闘争の中、カティプナンは2つのグループに分裂します。1つはボニファシオに近いアルバレス将軍率いるマグディワン派で、もう1つはエミリオ・アギナルド(emilio aguinaldo)将軍の兄弟バルトロメオ率いるマグダロ派でした。分裂を回避するため開かれたテヘロス会議で、マグダロ派のメンバーがボニファシオの指導力に疑問を呈したときに、ボニファシオは会議を放棄し議決の無効を宣言したためカティプナンにおける主導権を喪失します。その後、ボニファシオはカティプナンの指導権を掌握したアギナルド将軍の指示で逮捕され、カビーテ州マラゴンダンで軍事裁判に掛けられ反逆罪で1897年5月10日に処刑されます。1897年11月1日、スペイン本国から兵力を補給され、態勢を立て直した植民地軍は反撃を始め、独立派は、ブラカン州ビアク・ナ・バトーに追いつめられ、アギナルドは、キューバ憲法を模倣した暫定憲法を公布し、タガログ語を公用語とする「ビアクナバト共和国」を樹立し、大統領に就任します。
1897年11月18日〜12月15日にかけて、スペイン総督との和平交渉を進め、総督の出した和平の条件は、反乱軍全員の赦免、武器の引き渡しと交換に指導者は日本か香港に亡命そして170万ペソの支払いでした。
アギナルドは当初、独立を認めない限り和平はあり得ない、としていましたが、要求はスペイン側に有利となるように変えられ、次の条件で交渉は成立しまし、フィリピン共和国憲法公布の17日後に、休戦条約が締結されました。
- アギナルドたち指導者は香港へ亡命する。
- スペインは80万ペソを分割して支払う。
- 武器を置いたものには特赦を与える。
- スペインは戦災市民のために90万ペソを分け与える。
その後、スペイン当局は、アギナルドに40万ペソを渡し、20万ペソを国内の革命指導者たちに分配した残りの110万ペソを支払いませんでした。また特赦はされず、多くのフィリピン人が逮捕投獄され、ビアクナバト条約は遵守されませんでした。フィリピン人たちは、各地でボニファシオの意志を継いで「独立」を求めて立ち上がり、平和条約はフィリピンに平和をもたらしませんでした。
(Photograph by Jack Birns)
米西戦争(American-Spanish War)
国内でフロンティアの消滅した米国は、国民世論を動員して膨張政策をとっていました。アジアに拠点を求める米国は1854年ペリーにより日本を開国させましたが、日本はその後明治維新で統一し、米国の植民地化を阻止しました。内乱状態が続いていたキューバでは、スペインのキューバ人に対する残虐行為が行われ、これをアメリカの新聞が誇大に報道し、アメリカ国民の人道的感情を刺激したと言われています。 1898年2月15日にキューバ、ハバナ湾で米海軍の戦艦メイン(USS Maine)が爆発、沈没し260名の乗員を失う事故が発生、当時の米国のメディアは、この事件を「スペイン側の陰謀」「リメンバー・メイン」などの好戦的で感情的な報道をしました。これは、一層米国民を刺激することとなりました。
1898年4月11日、第25代アメリカ合衆国大統領ウィリアム・マッキンリー(William McKinley)は内戦の終了を目的としてキューバへ米軍を派遣する権限を求める議案を議会に提出し、1898年4月19日に議会にて承認されます。 1898年4月25日に連邦議会はアメリカとスペインの間の戦争状態が4月20日以来存在することを宣言します。戦争開始と同時に、前年の1897年より香港に停泊して出撃準備を整えていた米国アジア艦隊は、1898年5月1日フィリピンへと向かい、マニラのスペイン艦隊を全滅させます。1898年7月25日にはプエルトリコを占領します。米西戦争
(Photograph from U.S. Naval Historical Center)
1911年、沈んでいたメインの船体が引き上げられて原因が調査され、弾薬庫付近の船底の鉄板の曲がり具合から、機雷によって外から爆破されたもの、という結論が発表されました。
フィリピン独立記念日(Independence Day of the Philippines)
米艦隊のデューイ提督は、香港にいたアギナルドに接触し、フィリピンの独立支援を名目に米軍への協力を要請します。米国がアギナルドを必要としたのは「革命援助に介入する大義がほしい」ということでした。1898年5月19日、アギナルドら亡命指導部は、米軍を後盾にフィリピンへの帰還を果たします。米艦でフィリピンへ戻るとアギナルドはカビテで「独裁政権」の樹立を宣言し、6月12日には独立宣言を発し「独裁政府」大統領に就任します。宣言の中で『偉大で真に自由の国である米国は、わが国民を支配する意図は全く持たず、我々を守ってくれることを明らかにした』と述べました。
1898年7月15日には、アポリナリオ・マビニを首相とする革命政府の内閣が発足し、行政機構の整備とともに、アメリカ軍と提携して各地に侵攻し、8月末までにルソン中央部・南タガログ地域をスペイン支配から解放して革命政府の支配下に置きます。
香港へ追放中にアギナルドによってデザインされ、現在、国旗の母と呼ばれているマルセラ・アゴンシリオ(Marcela Agoncillo)とホセ・リサールの姪のデルフィーナ・リサール・ヘルボーサ・デ・ナティビダッド(Delfina Rizal Herbosa de Natividad)によって縫われた旗は、新しく作られた国歌が流れる中で、独立宣言の1898年6月12日にカビーテ(Cavite)州カウィット(Kawit)のアギナルドの家のバルコニーで初めて揚げられました。
アギナルドは「今や全フィリピンがカティプナンである」としてカティプナンを廃止します。5ペソ紙幣の裏には、アギナルドが国旗を掲げ、民衆が歓喜する独立宣言の様子が描かれています。写真は、カビーテ(Cavite)州カウィット(Kawit)の、アギナルドの生家。このバルコニーで国旗を掲げ独立が宣言されました。
パリ条約(Treaty of Paris)
スペインは米西戦争で、太平洋艦隊、大西洋艦隊を失い、交戦状態は1898年8月12日に停止します。和平条約は1898年12月10日にパリで調印され(パリ条約)、スペインは、フィリピン、グアムおよびプエルトリコを含むスペイン植民地のほとんどすべてを失い、パリ条約の内容は以下のようなものでした。- スペインは、キューバに対するすべての権利を放棄し、独立を認める。
- プエルトリコとグアムを米国に割譲する。
- 西インド諸島の所有権を放棄する。
- 2000万ドルと引き替えに、フィリピンを米国に売却する。
- 割譲された土地の政治的地位は米国議会が決定する。
フィリピン共和国の建設
アギナルドは「パリ条約は受け入れられない」と宣言し、米国に対して「米国の侵略とフィリピンの主権侵害に厳重に抗議する」と声明を出しました。彼は次のように述べていました『もし米国が武力でフィリピンを領有しようとするなら、わが政府は公然と対決しなければならない。同時に全世界に対して、いったい真の抑圧者、人類の敵は誰なのか、ということを知らさなければならない』。そして1899年1月21日憲法が公布され、フィリピン共和国の成立を祝う式典を挙行しました。フィリピン共和国政府はスペイン人捕虜を特赦し、小学校の無償教育のための予算を計上し、国家資格の制度を作り、大学を開校させ、紙幣を発行し、徴兵制度を敷き、税制を整えました。米国を理想国家と考えていたアギナルドは、米国を非難しながらも、米国の善意を信じ、ひたすら国家建設を進めました。しかし、フィリピン共和国はどの国からも承認されませんでした。
米比戦争
米国は、米西戦争で「フィリピン独立の支援」を大義として介入しましたが、パリ条約においてスペインから2,000万ドルでフィリピンを購入し、自国の植民地にしようとしました。アギナルド政権を承認しない米国はアギナルドの占領に対する抗議を相手にせず、軍政長官はアギナルドの抗議を「米国に対する戦争準備に等しい」として、米軍を次々と増員させ、戦争に備えました。1899年2月4日、アメリカ支配側に立ち入ったとされるフィリピン兵が射殺されます。第25代アメリカ合衆国大統領ウィリアム・マッキンリー(William McKinley)は、この事件はフィリピン側によるマニラ市内への攻撃であったと新聞に語り、責任をフィリピン側に求め、米比戦争へと発展します。 3月31日には首都マロロスが陥落し、8月14日には、11,000人の地上部隊がフィリピンを占領するために送られ、反抗するフィリピン人60万人が虐殺されたそうです。
フィリピン南部ミンダナオ地方で抵抗を続けたイスラム教徒のモロ(moro)族は、1899年から1916年に渡るモロ・アメリカ戦争ではおよそ2万人以上が犠牲となったそうです。
ダホ山の戦いから数ヶ月後、マアス・ジキリ率いるタウスグ族の小集団がアメリカ軍を攻撃、抵抗を続けました。ジキリは1909年に戦死するまでおよそ3年間戦い続け、不利な状況下でも退却しないタウスグ族の勇敢なリーダーとしてアメリカ人もジキリの勇敢さに敬意を表し、敵国人として唯一その彫刻がワシントンの博物館に展示されているといいます。 米比戦争
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反乱鎮圧
米国内ではハワイ併合により、マーク・トウェーンらによる帝国主義化に反対する運動が起こっていて、米国議会はパリ条約を批准(ひじゅん)できないでいました。しかし、米比戦争の勃発で世論は大きく傾き、戦争開始の2日後、米議会はパリ条約を批准します。スペイン本国でこの条約の批准は議会を二分していましたが、3月にスペイン女王が条約に署名することで決着がつき、正式にフィリピンは米国領となります。フィリピン共和国を認めていない米国にとって、この戦争は反乱鎮圧でした。フィリピン共和国からの度重なる休戦の申し出に対し、「無条件降伏しか認めない」と申し出に応じませんでした。米軍は大虐殺を行いましたが、これらの事実は報道により外部に伝わることはありませんでした。米国民は、「フィリピンに平和と民主主義を拡大させるために米軍が戦っている」と信じていました。
1899年11月、アギナルドは家族とわずかな兵だけで各地を逃亡するようになり、米軍に協力するフィリピン人も有産階級を中心として多くなり、1901年3月に米軍に逮捕されます。
アーサー・マッカーサー(arthur_macarthur_jr)米将軍は、米国への忠誠を拒否したフィリピン軍指導者たちを軍事裁判にかけ、グアム島の牢獄へと送りました。しかしアギナルドは、米国に忠誠を誓い、フィリピン人民へ次のように宣言しました。「フィリピン人の幸福のために、もはや憎しみや戦闘に終止符を打つべきだ。平和の道は残されている。それは、米国の栄光ある旗の下にはせ参じることだ。その保護と主権の元に、わが人民は、自由をたのしむことができる。全フィリピンへの米国の主権を認め、受け入れることこそが、いまや祖国に奉仕することなのである」そして、アギナルドは、米国から多額な年金と邸宅を与えられて、政治活動から引退します。この戦争における戦死者は米兵4000人、フィリピン兵14000人に、病死や餓死などを含めて一般人20万人だったそうです。
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独立準備政府(Commonwealth)
1933年にフランクリン・ルーズベルトがアメリカ大統領に就任。ヘア・ホーズ・カッティング法案が合衆国議会を通過しました。この法案は、10年間の準備期間を持ちフィリピンの独立を承認するが、アメリカの陸海軍基地は残し、フィリピンの輸出に関税と数量割当を課すという内容のもので、フィリピンにより拒絶されました。1934年、アメリカでタイディングス・マクダフィー法(フィリピン独立法)が成立。それは、アメリカは1946年までにフィリピンの完全な独立を承認し、フィリピンはアメリカの監督をうけるが、国民投票によって選出されるフィリピン大統領と憲法をもつ共和制とする、などの規定がされていました。
1935年5月14日、憲法はフィリピン人民の国民投票によって批准され、11月15日にフィリピン独立準備政府(コモンウェルス)が発足、マニュエル・ケソン(Manuel Luis Quezon)が独立準備政府初代大統領となります。
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第2次共和国
1941年12月8日に太平洋戦争が勃発し、12月26日には、日本軍がフィリピンに侵攻しアメリカ軍はマニラ非武装都市宣言を出しバターンに退却します。1942年1月2日、日本軍はマニラに無血入城し、3日には本間中将による軍政布告が出されます。1942年2月、コレヒドール要塞に逃れたフィリピン大統領のマニュエル・ケソン(Manuel Luis Quezon)、副大統領のセルヒオ・オスメニャ(Sergio Osmena)は、ダグラス・マッカーサーとともに、オーストラリア経由でアメリカ本土に亡命し、1942年5月に亡命政府を樹立します。 1942年4月9日にバターンが陥落(バターン死の行進)、5月6日にはコレヒドールが陥落し、5月7日にはウェイライト将軍がラジオで降伏宣言をします。1943年6月の帝国議会で東條英機首相が示したフィリピン独立の方針を受けた独立準備委員会でホセ・ラウレル(Jose Paciano Laurel)は委員長として憲法を起草、1943年に日本の影響下にある国民議会によってホセ・ラウレル(Jose Paciano Laurel)が共和国大統領に選出され、10月4日第2次フィリピン共和国が発足します。
1944年8月、マニュエル・ケソン(Manuel Luis Quezon)が亡くなり、セルヒオ・オスメニャ(Sergio Osmena)が大統領となります。
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