pichori logo

ピチョリWebサイト(Pichori website)

Contact

近況と話題 (Recent status and topics)

横浜開港150周年

スームビング号(Sumubingu)1858年7月29日(安政5年6月19日)年に締結された日米修好通商条約により、1859年7月1日に横浜が開港しました。横浜では開港150周年記念テーマイベントなどが開催され、山下公園には当時の黒船を思わせる外輪型蒸気帆船が来航し、乗船体験プログラム、夜間ライトアップなど、様々なイベントが展開されました。イベントに使われた船は、1850年(嘉永3年)にオランダで建造が開始され、1853年(嘉永6年)に完成し、1855年(嘉永7年)にオランダ国王ウィレム3世から13代将軍徳川家定に贈呈された「スームビング号(Sumubingu)」の復元船で、日本最初の蒸気船です。1856年(安政3年)に「観光丸」と改名し、幕府海軍の練習艦として使われます。1865年(慶応元年)に「観光」と再び改名され、1868年(明治元年)明治新政府所管となり、1876年(明治9年)に除籍され解体されます。
観光丸観光は、中国『易経』の「観国之光」国の光を観る、からとったもので、観光旅行等の「観光」はここからの言葉です。現在の観光丸は、国立アムステルダム海事博物館所蔵の設計図面と模型を基に、オランダのハウスデン市にあるフェロルメ造船所で造船され、1987年(昭和62年)に進水した復元船で、当時の観光丸が使用したものと同じ材料を使っていて、船体、船室、キャビンなどの彫刻も当時のままに再現されているそうです。全長65.8m、全幅14.5m、総トン数353t、乗船定員300名、メインマストの高さ32m。

(長崎県佐世保市、ハウステンボス所有)

内容(Contents)

黒船来航

  • 1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、アメリカ合衆国海軍所属の東インド艦船が、江戸湾浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)に来航します。艦隊司令官は、マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)で、来港した艦船は、帆以外に蒸気機関で外輪を回し航行でき、船体は、当時の欧米船に多く見られるタールで黒色に塗られていました。その色から、日本人は「黒船」と呼んだようです。
    サスケハナ(USS Susquehanna)浦賀沖に投錨した艦隊は旗艦の蒸気外輪フリゲート「サスケハナ(USS Susquehanna)」と蒸気外輪フリゲート「ミシシッピー(USS Mississippi)」、帆船「サラトガ(USS Saratoga)」と帆船「プリマス(USS Plymouth)」の巡洋艦四隻からなっていました。大砲は計100門で、アメリカ独立記念日(7月4日)の祝砲や、号令や合図を目的として、湾内で数十発の空砲を発射しまし、最初の砲撃によって江戸は大混乱となり、「太平の眠りをさます上喜撰たった四はいで夜も寝れず」という狂歌に詠まれた騒ぎとなります。
    「太平の眠りを覚ます」は、鎖国から開国することで、「上喜撰」は、宇治の高級茶の銘柄「喜撰」の上等な物のことで、蒸気船を意味します。 「たった四はいで」は、杯は船を数える単位でもあります。上喜撰をたった四杯飲んだだけで(蒸気船が四隻来航しただけで)夜も寝られなくなるとは情けない、でしょうか。
    幕府は、それまでは、異国船打払令を出して、来航した外国船を数回にわたって追い返していました。ペリー艦隊の来航は、前年にオランダ商館長から、知らされていて、三浦半島に彦根藩からの防備の兵を増やし、今までの外国船同様、追い返す予定だったようです。 この時のペリーの要求は、アメリカ大統領フィルモアの国書を渡すことでしたが、代12将軍徳川家慶は病の床にあり何かの決定を行えるような状態ではありませんでした。 老中首座阿部正弘は、1853年7月11日(嘉永6年6月6日)に国書を受け取るぐらいは仕方ないだろうとの結論に至り、1853年7月14日(嘉永6年6月9日)にペリー一行の久里浜上陸を許可、浦賀奉行の戸田伊豆守と井戸石見守がペリーと会見しました。ペリーは彼等に開国を促すフィルモア大統領親書、提督の信任状、覚書などを手渡しましたが、幕府は将軍が病気であって決定できないとして、返答に1年の猶予を要求し、ペリーは返事を聞く為、1年後に再来航すると告げ、艦隊は1853年7月17日(嘉永6年6月12日)に江戸を離れ、琉球に残した艦隊に合流して香港へ帰ります。

日米和親条約

  • マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)1854年(嘉永7年1月)、ペリーは再び浦賀に来航します。幕府との取り決めで、1年間の猶予を与えるはずでしたが、ペリーは香港で将軍家慶の死を知り、あえて半年で決断を迫りました。 1854年2月11日(嘉永7年1月14日)に帆船「サザンプトン」輸送艦が現れ、1854年2月13日(嘉永7年1月16日)までに旗艦の蒸気外輪フリゲート「サスケハナ」、蒸気外輪フリゲート「ミシシッピー」、蒸気外輪フリゲート「ポーハタン(USS Powhatan)」、帆船「マセドニアン」、帆船「ヴァンダリア」、帆船「レキシントン」の巡洋艦6隻が到着します。なお、江戸湾到着後に旗艦は蒸気外輪フリゲート「ポーハタン」に移ります。2月6日に帆船「サラトガ」、2月21日に帆船「サプライ」が到着して計9隻の艦隊が江戸湾に集結します。
    約1ヶ月にわたる協議の末、幕府は返答を出し、アメリカの開国要求を受け入れます。1854年3月31日(嘉永7年3月3日)、ペリーは約500名の兵員を以って武蔵国神奈川の横浜村(神奈川県横浜市)に上陸し、全12ヶ条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)が締結されて日米合意は正式なものとなります。その後、伊豆国下田(静岡県下田市)の了仙寺へ交渉の場を移し、5月25日に和親条約の細則を定めた全13ヶ条からなる下田条約が締結されます。
    日米和親条約では次のような内容が定められました。
    • アメリカに物資を補給(薪水給与)するために下田、函館を開港(条約港の設定)すること。(第二條)
    • 漂流民の救助、引き渡し。(第三條)
    • アメリカ人居留地を下田に設定する。(第五條)
    • 片務的最恵国待遇(第九條)
    下田条約では次のような細則が定められました
    • アメリカ人の移動可能範囲は下田より7里、函館より5里四方に限り、武家・町家に立ち入る事を禁ず。
    • アメリカ人に対する暫定的な休息所として了仙寺・玉泉寺に置き、米人墓所は玉泉寺に置く。
    • アメリカ人が鳥獣を狩猟する事を禁ず。

日米修好通商条約

  • タウンゼント・ハリス(Townsend Harris)日米和親条約により、日本初の総領事として赴任したタウンゼント・ハリス(Townsend Harris)は、日米約定締結後さらに修好通商条約の締結を求め、これに対し当時老中首座であった堀田正睦は井上清直、岩瀬忠震を全権委員に任命して交渉させ、両者の間で条約の内容が確定されます。しかし、多くの大名が本条約の調印にあたって天皇の勅許を得るべきとの意見を表した「廷臣八十八卿列参事件」がおきます。 孝明天皇自身も、和親条約による薪水給与までは、あくまで港までの上陸となるため、「神国日本を汚すことにはならない」との考えでしたが、対等な立場での異国との通商条約はこの秩序に変化をもたらすものであり「祖先に申し訳ない」と頑固な態度で拒否しました。勅許獲得は失敗に終わり、それが原因で堀田正睦は辞職に追い込まれます。 日本側は消極的態度に終始しましたが、 ハリスは、アロー号事件で清に出兵したイギリスやフランスが日本に侵略する可能性を指摘し、それを防ぐには、あらかじめ日本と友好的なアメリカとアヘンの輸入を禁止する条項を含む通商条約を結ぶほかないと説得します。新しく大老に就任した井伊直弼は、直接ハリスとの交渉に当たっていた目付の岩瀬忠震と下田奉行の井上清直に、延期を申し入れ、それが受け入れられない場合には調印しても良いという指示を与え、英仏の動きに危機感を持っていた二人は延期交渉をせず、未勅許のまま1858年7月29日(安政5年6月19日)、神奈川の小柴沖(金沢区柴町の沖合)に停泊するポーハタンに到着するとすぐ、日米修好通商条約に調印したと言われています。
    条約の要点
    • アメリカ公使の江戸駐在
    • 江戸(1862年1月1日)・大坂の開市(1863年1月1日)
    • 条約港の設定。
      神奈川(1859年7月4日)、長崎(1859年7月4日)、箱館(函館はすでに開港)、新潟(1860年1月1日)、兵庫(1863年1月1日)の開港。
      実際に開港したのは神奈川ではなく横浜(1859年7月1日開港)、兵庫ではなく神戸でした。それにより、明治新政府になると横浜を神奈川県、神戸を兵庫県として廃藩置県することになります。
    • 自由貿易
    • 領事裁判権をアメリカに認める。
    • 関税はあらかじめ両国で協議する(協定税率。関税自主権の喪失)。
    • 内外貨幣の同種同量による通用。
      貨幣の交換比率は銀貨を基準に定められました。当時の日本の金銀比価は金1に対し銀4.65で、諸外国の相場は金1対銀15.3でした。物価は金基準では諸外国と同等でしたが、銀基準では安く、そのため幕府は金貨基準の貨幣の交換を主張しますが、銀貨基準の交換となり、金の流出とインフレーションによる経済の混乱を引き起こすこととなります。
    • アメリカへの片務的最恵国待遇
    幕府は同様の条約をイギリス、フランス、オランダとロシアとも結びます。この条約の改正は、1899年(明治32年)7月17日の日米通商航海条約の発行より失効します。

幕府崩壊と近代化

  • 通商貿易が始まり、貿易により経済的危機がもたらされると幕府の威信は低下し、これを機会に反幕府勢力が強くなり朝廷の権威が増大します。幕府は1867年に政権を幕府から天皇に返還する大政奉還を行い権力の存続を図りますが、反発する薩摩藩、長州藩との戊辰戦争に敗北し、翌1868年に明治天皇を中心とした新政府が成立する、明治維新が起きます。
  • 幕府崩壊後の日本は、20年の間に欧州諸国を手本とする施策が講じられて、近代国家に発展していきました。統治制度の面では、内閣制度の設置、議会の開設、司法権の独立、国民の権利義務を定めた憲法の制定、ドイツ式陸軍とイギリス式海軍の設立、地方制度の改革などが行われました。経済の面では、土地制度の改革と官営事業による産業振興、貨幣制度の統一が行われました。社会文化の面では、近代的学校制度が確立しました。士農工商の身分制度の廃止とともに武士の経済的、社会的特権もなくなり、欧米文化が積極的に取り入れられました。
  • 近代化により国力は充実しましたが、日本はアジア各地におけるアメリカ・イギリス・フランス・オランダ・ロシアなどの既得権益と衝突することとなります。  1904年に起った日露戦争は、日本の国運を賭けた戦争でした。日本は強国ロシアを陸海において破り、1905年アメリカの斡旋によるポーツマス条約により戦争は終結します。国内においては、19世紀の終りごろから産業革命が進展し、資本主義が発達し、第1次世界大戦以後は政党政治も一般化するようになります。

世界恐慌と動乱

  • 1929年の世界恐慌を契機に日本経済は、それまで主にアメリカ向けに頼っていた生糸の輸出が急激に落ち込み、危機的状況に至ります。都市部では株の暴落により、多くの会社が倒産し失業者が増加しました。農村では娘を売る身売りや欠食児童が急増して社会問題化します。
    国民が困窮する中、高橋是清蔵相による積極的な歳出拡大や1931年12月17日の金兌換の停止による円相場の下落もあり、インドなどアジア地域を中心とした輸出により1932年には欧米諸国に先駆けて景気回復を遂げますが、欧米諸国との貿易摩擦が起こります。1932年8月にはイギリス連邦のブロック政策による高関税政策が開始されインド・イギリスブロックから事実上締め出されたことから、満州や台湾など旧植民地アジアが貿易の対象となり、重工業化へ向けた官民一体の経済体制転換を打ち出します。
  • 軍部の発言力が強まり、日本は大陸進出へと進んでいきます。満州事変、五・一五事件、ワシントン海軍軍縮条約、ロンドン海軍軍縮条約の破棄、二・二六事件、日独伊防共協定の締結、そして1937年には日中戦争が勃発します。1941年12月には、日本とアメリカ・イギリス・オランダなどとの間に太平洋戦争が勃発し、1939年ドイツがヨーロッパで口火を切った戦争は、三国同盟を結んだ日・独・伊と連合国との間の第2次世界大戦に広がります。
    日本は、はじめの半年間に西南太平洋の広大な地域を占領下におきますが、その後、アメリカ軍を主力とする連合国軍は反撃に転じ、1945年アメリカ軍は沖縄に上陸し、さらに、広島・長崎への史上初の原子爆弾投下とソ連の対日参戦が続きます。こうした打撃によって、日本は1945年8月無条件降伏をし、太平洋戦争が終わり、イタリアに続いてドイツも降伏していたので、これにより第2次世界大戦が終結します。

降伏文書調印式

  • 降伏文書調印式日本の終戦記念日は、1945年(昭和20年)8月15日正午に天皇がポツダム宣言受諾の詔勅を読んだ日ですが、アメリカではミズーリ艦上の調印式の9月2日を「対日戦争勝利記念日」としています。
    降伏文書調印式は1945年(昭和20年)9月2日に東京湾、浦賀水道内の海域に停泊する戦艦ミズーリ(USS Missouri)の甲板上で行われ、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、オランダ、中華民国、カナダ、ソビエト、オーストラリア、ニュージーランドが調印して日本の降伏を受け入れました。 連合国側は、チェスター・ニミッツ海軍元帥、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー陸軍元帥、他全ての連合国軍高官がミズーリに乗艦しました。 日本側全権代表団は外務大臣の重光葵政府全権と参謀総長の梅津美治郎大本営全権、随員は参謀本部第一部長宮崎周一陸軍中将、終戦連絡中央事務局長官岡崎勝男、軍令部第一部長富岡定俊海軍少将、内閣情報局第三部長加瀬俊一、大本営陸軍参謀永井八津次陸軍少将、海軍省出仕横山一郎海軍少将、終戦連絡中央事務局第三部長太田三郎、大本営海軍参謀柴勝男海軍大佐、大本営陸軍参謀杉田一次陸軍大佐でした。豊田副武軍令部総長は出席を拒否し、次長の大西瀧治郎中将は自決したそうです。

    (Photograph from the U.S. National Archives)

ペリー・フラッグ(Perry's flag)

  • マッカーサー元帥のスピーチ9:02にマッカーサー元帥がマイクの前に進み、降伏調印式は23分間にわたって世界中に放送されました。 調印式が行われた際、ミズーリの甲板には2枚の星条旗が飾られていました。1枚は真珠湾攻撃時にホワイトハウスに飾られていた物で、連邦48州の星が描かれた星条旗、もう1枚は、連邦31州の星が描かれた星条旗で1853年の黒船来航で江戸沖に現れた、旗艦の蒸気外輪フリゲート「サスケハナ」が掲げていた物だそうです。
    ペリー・フラッグは、ハワイ真珠湾の戦艦ミズーリ記念館(Buttleship Missouri Memorial)に複製が展示されています。それは、ちょうど船内左舷側の降伏文書調印式が行われた隔壁に付けられています。原型の旗は降伏文書調印式のため海軍士官学校博物館より、ダグラスマッカーサー(Douglas MacArthur)の要望により日本に持ってこられ掲げられたそうです。マッカーサーはニューイングランドペリー家の直系の子孫で、ペリーの血縁者でした。マッカーサーは、おそらく自分自身を日本の第2の開国者とみなしたのではないかと言われています。調印式の写真では、旗が裏側に掲げられていますが、旗の布がもろく表側にできないそうです。現在、ペリーフラッグは、メリーランドのアナポリス米国海軍兵学校に保存されています。
    31スターフラッグ ペリー・フラッグペリー・フラッグ(右)は、標準的な31スターフラッグ(左)と異なり、5つの星の列と最後の列には6つの星を持った星条旗でした。

    (Photograph from the U.S. National Archives)