フィリピンの歴史(History of the Philippines)
カティプナン(katipunan)
カティプナン(katipunan)は、ホセ・リサール(Jos Rizal)によって創立された、フィリピン人同盟(La Liga Filipina)の後継者組織でした。アンドレス・ボニファシオ(Andres Bonifacio)、ラディズラオ・ディワ(Ladislao Diwa)とテオドロ・プラタ(Teodoro Plata)は、すべて、フィリピン人同盟のメンバーで、スペインで国家主義的な理想のプロパガンダ運動によって影響された人達でした。内容(Contents)
フィリピン人同盟は、フィリピン人同盟の原則を主張する、平和的な改革派と、平和的改革運動ではフィリピン人が自由を獲得することはできないと主張する、革命派に分裂します。 1892年7月7日、アンドレス・ボニファシオ(Andres Bonifacio)、ラディズラオ・ディワ(Ladislao Diwa)とテオドロ・プラタ(Teodoro Plata)は、フィリピン人同盟のメンバー、デオダート・アレジャノ(Deodato Arellano)、バレンチ−ネ・ディアス(Valentine Diaz)、ホセ・ディソン(Jose Dizon)をマニラ市トンドに集め、スペインからの独立を得るための、武装反乱に備えることを訴え、革命組織カティプナン(Katipunan)を結成します。 カティプナン(katipunan)の語源はティポン(tipon)で、土着のタガログ語に由来します。意味は「社会」または「収縮」。 公式の革命の意味は、人民の子らの最も尊敬すべき至高の協会(Kataas-taasang、Kagalang-galangang Katipunan ng mga Anak ng Bayan)として翻訳され、その頭文字からKKKと呼ばれます。カティプナン(Katipunan)の中心的な指導部は、地方の議会(Sangguniang)を管理した最高評議会(Kataastaasang Sanggunian)でした。地方の議会にはメンバー間の論争を解決した司法協議会(Sangguniang Hukuman)がありました。1892年に、Katipunanが設立された後に最高評議会のメンバーは大統領に、デオダート・アレラノ(Deodato Arellano)、会計監査官に、アンドレス・ボニファシオ(Andres Bonifacio)、財政に、ラディスラオ・ディワ(Ladislao Diwa)、秘書としてテオドロ・プラタ(Teodoro Plata)、会計係にバレンチネ・ディアス(Valentine Diaz)で構成されていました。 平和的改革運動ではフィリピン人が自由を獲得することはできないと悟ったメンバーは武力革命こそがスペインの支配からフィリピンを解放するものだと確信、リサールや他の改革運動家と違ってスペインから完全に独立すべきだと考え活動しました。
1895年の最高評議会のメンバーは、大統領が、アンドレス・ボニファシオ(Andres Bonifacio)、会計監査官に、ピオ・ヴァレンズエラ(Pio Valenzuela)、秘書としてエミリオ・ハシント(Emilio Jacinto)、会計係としてのヴィセンテ・モリナ(Vicente Molina)とエンリケ・パシェコ(Enrique Pacheco)(議員としてのパンタレオン・トレス(Pantaleon Torres)、バルビノ・フロレンチーノ(Balbino Florentino)、フランシスコカーロン(Francisco Carreon)とヘルメニギルド・レイズ(Hermenigildo Reyes)でした。
カティプナンの存在が当局に露見するころにはメンバーは10万人規模に成長していました。
1896年、カティプナンのメンバーがマニラ郊外バリンタワク(Balintawak)で反乱の証としてセドゥラス(住民税証明書)を破り、ボニファシオは武力闘争を宣言します(バリンタワクの叫び)。現在、ケソン市バリンタワクに記念碑があります。
「KKK」は「Kataastaasan at Kagalanggalang Katipunan ng Mga Anak Ng Bayan(人民の子らの最も尊敬すべき至高の協会)」の頭文字で、 ベニータロドリゲスの援助で、赤い布に白でKKKが水平に配置される単純な赤旗を作製しました。赤は、自由のために戦って、必要あらば血を流す準備ができている、血と勇気を表した革命の意味が込められていました。
(Photograph from Wikipedia)