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フィリピンの歴史(History of the Philippines)

アンドレス・ボニファシオ(Andres Bonifacio)

アンドレス・ボニファシオ(Andres Bonifacio)アンドレス・ボニファシオ(Andres Bonifacio)は、マニラ市トンド(Tondo)のスラム街で生まれ、史上初めて革命を目指したことから「フィリピン革命の父」といわれています。幼い頃に孤児となり、学歴はありませんが、商業用のポスターなどを作る才能があったようです。 ボニファシオは、後にイギリスの商社、フレミング・アンド・カンパニー(Fleming and Company)のセールスマンとして雇用され、彼の正直が販売を促進したそうです。彼は、自身を教育するために、外国小説、フランス革命、政治、法律、宗教に関する書物を買い、それらを熱心に読んだそうです。 平和的改革運動ではフィリピン人が自由を獲得することはできないと悟ったボニファシオは武力革命こそがスペインの支配からフィリピンを解放するものだと確信、リサールや他の改革運動家と違ってスペインから完全に独立すべきだと考え、革命組織カティプナン(Katipunan)を結成します。

(Photograph from Wikipedia)

内容(Contents)

カティプナン(Katipunan)

  • 1892年7月7日、アンドレス・ボニファシオ(Andres Bonifacio)、ラディスラオ・ディワ(Ladislao Diwa)とテオドロ・プラタ(Teodoro Plata)は、フィリピン人同盟のメンバー、デオダート・アレジャノ(Deodato Arellano)、バレンチ−ネ・ディアス(Valentine Diaz)、ホセ・ディソン(Jose Dizon)をマニラ市トンドに集め、スペインからの独立を得るための、武装反乱に備えることを訴え、革命組織カティプナン(Katipunan)を結成します。カティプナンの旗カティプナンの旗「KKK」は「Kataastaasan at Kagalanggalang Katipunan ng Mga Anak Ng Bayan(人民の子らの最も尊敬すべき至高の協会)」の頭文字で、 ベニータロドリゲスの援助で、赤い布に白でKKKが水平に配置される単純な赤旗を作製しました。赤は、自由のために戦って、必要あらば血を流す準備ができている、血と勇気を表した革命の意味が込められていました。
  • カティプナンの中心的な指導部は、地方の議会(Sangguniang)を管理した最高評議会(Kataastaasang Sanggunian)でした。地方の議会にはメンバー間の論争を解決した司法協議会(Sangguniang Hukuman)がありました。
    1892年に、Katipunanが設立された後に最高評議会のメンバーは大統領に、デオダート・アレラノ(Deodato Arellano)、会計監査官に、アンドレス・ボニファシオ(Andres Bonifacio)、財政に、ラディスラオ・ディワ(Ladislao Diwa)、秘書としてテオドロ・プラタ(Teodoro Plata)、会計係にバレンチネ・ディアス(Valentine Diaz)で構成されていました。
  • 1895年の最高評議会のメンバーは、大統領が、アンドレス・ボニファシオ(Andres Bonifacio)、会計監査官に、ピオ・ヴァレンズエラ(Pio Valenzuela)、秘書としてエミリオ・ハシント(Emilio Jacinto)、会計係としてのヴィセンテ・モリナ(Vicente Molina)とエンリケ・パシェコ(Enrique Pacheco)(議員としてのパンタレオン・トレス(Pantaleon Torres)、バルビノ・フロレンチーノ(Balbino Florentino)、フランシスコカーロン(Francisco Carreon)とヘルメニギルド・レイズ(Hermenigildo Reyes)でした。
    カティプナンの存在が当局に露見するころにはメンバーは10万人規模に成長していました。

バリンタワクの叫び

  • 1896年8月29日、カティプナンのメンバーがマニラ郊外バリンタワク(Balintawak)で反乱の証としてセドゥラス(住民税証明書)を破り、ボニファシオは武力闘争を宣言します(バリンタワクの叫び)。現在、ケソン市バリンタワクに記念碑があります。
    1896年8月30日、ブランコ総督は、マニラ、カビーテ、ラグナ、バタンガス、ブラカン、パンパンガ、タルラク、及びヌエバ・エシハの地方に戒厳令を宣言します。革命闘争が広がりをみせる中、カビーテでは、エミリオ・アギナルド(Aguinaldo)が革命政府の設立を提案しました。 しかし、だれが新政府の上に立つべきかで、カティプナンのカビーテ支部はマグディワン派(Magdiwang)とマグダロ派(Magdalo)に分裂します。 マグディワン派(Magdiwang)は、マリアーノ・アルバレス将軍(Mariano Alvarez)によって始められ、アンドレス・ボニファシオの最も大きい支持者でした。 マグダロ派(Magdalo)は、エミリオ・アギナルド将軍(Aguinaldo)の組織。 マグディワン派(Magdiwang)は彼らが、カビーテでの反逆の扇動者であったので武装組織のリーダーとして、より高い認識の権利を与えられたという考えに対し、マグダロ派(Magdalo)は、勝利がエミリオ・アギナルド将軍のリーダーシップの結果と考えられると主張しました。

カティプナン大統領職選挙

  • 後日開かれたテジェロス(Tejeros)協議会では、誰もが大多数の決定を尊重することに合意し開催されました。 カティプナン大統領職の選挙では、エミリオ・アギナルド(Aguinaldo)が不在のまま選出され、アンドレス・ボニファシオは2番目となり、マリアーノ・トゥリアス(Mariano Trias)が副大統領に選出されます。そして、アンドレス・ボニファシオは内部の大臣に選ばれます。
  • ボニファシオと彼の支持者は、ボニファシオが武装反乱の創始者であり、彼が大統領で有るべきと思っていたので、テジェロス(Tejeros)協議会が無効であると宣言し、ボニファシオは彼の妻、兄弟、およびわずかな支持者と、カビーテに向けて発ちましたが、マグダロ派の追随者との戦いで、彼の兄弟チリアコ(Ciriaco)が殺され、ボニファシオは重傷を負い捕らえられます。カビーテ州マラゴンド(Maragondon)に移送され、軍事裁判により、扇動罪で有罪となります。 アギナルドにより死罪は追放に変更されましたが、役員と人の堕落を防止するためと説得され、再び死罪となり、1897年5月10日処刑されます。