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フィリピンの歴史(History of the Philippines)

ホセ・リサール(Jose Rizal)

ホセ・リサール(Jose Rizal) ホセ・リサール(Jose Rizal)は、アメリカで南北戦争が始まった年の1861年6月19日にラグナ州(Laguna)カランバ(Calamba)で父フランシスコ・メルカドと母テオドラ・アロンソの11人兄弟の7番目として生まれました。
リサールの生家
フルネームはホセ・プロタシオ・メルカド・リサール・アロンソ・イ・レアロンダ(Jose Protacio Mercado Rizal Alonzo y Realonda)。
父方のメルカド家は中国・福建省の晋江から17世紀にフィリピンに渡り、フィリピン先住の女性と結婚した商人で、父フランシスコ・メルカド(Francisco Mercado Rizal)はラグナ州(Laguna)ビニャン(Binan)で1818年に生まれました。 母方のアロンソ家はスペイン人とフィリピン先住民の混血の家系で、母テオドラ・アロンソ(Teodora Alonzo y Quintos)は、マニラ(Manila)のサンタクルス(Santa Cruz)で1827年11月9日に生まれました。 ホセ・リサールは、3歳のときに母親からアルファベットを学び、5歳のときには読み書きができたそうです。彼はまた鉛筆画によるスケッチや粘土のモールドで家族や親類を驚かせたそうです。
1869年、8歳のときに、タガログ語の詩、サ・アキン・マガ・カバタ(Sa Aking Mga Kabata)を書きます。
当時、フィリピン土着人はスぺイン人から「インディオ」と呼ばれ、フィリピン人はスペイン人に対して大きな劣等感がありました。リサールの母親がスペイン人官憲に挨拶をしなかったということで警察に連行され、2年間、投獄されたそうです。そのとき、5歳のリサールは、ラグーナ湖のほとりで「なぜ、フィリピン人やフィリピン語が、白人社会から見下げられるのか」ということを考え込んでいたそうです。この詩は、同時代の人々に彼ら自身の母国語を受け入れるよう希望する意味が込められていました。

内容(Contents)

タガログ語(Tagalog)

マゼランが 1521年4月7日にフィリピンのセブ島に上陸して、スペインの統治が始まり、その後1863年まで、フィリピン人の子供は高等教育機関には進めませんでした。スペイン国王は当時、すべての植民地に学校を作り、スペイン語で学ばせるように命令を出していましたが、移住したスペイン官僚は、島々で言葉の違うフィリピン人がスペイン語を母国語として教育を受ければ、協調が生まれやがて反乱が起こることを警戒し、積極的に、スペイン語の普及政策を行ないませんでした。

教育(Education)

サント・トマス大学(University of Santo Tomas)1870年、9歳のリサールは最初の教育を受け、そこで、白人と自分を比較し、知的にも情的にも両者間に根本的には差はない、皮膚の色が違うだけだと確信するようになります。初等教育を終えると1877年、16歳でマニラのアテネオ大学(Ateneo de Manila University)で学士号を取得し、土地測量の技術を学びながら、同年、東洋最古の大学、サント・トマス大学(University of Santo Tomas)で哲学と医学を学び始めます。1878年5月21日に測量士の試験に合格しましたが、年令が17歳のために、1881年12月30日までライセンスは与えられませんでした。 サントトマス大学では、ドミニカの教師によるフィリピン人蔑視を感じ大学を去ります。
1882年リサールはスペインのマドリッドに留学し、マドリード・コンプルテンセ大学(Universidad Complutense de Madrid, UCM)で医学の勉強を続け、1883年にフリーメーソン(Freemason)に加入します。1884年に医学コース終了し、1885年6月19日に医学博士の学位を授与されると、さらにハイデルベルク大学とパリ大学で医学の勉強を続けました。
1987年、26歳までにスペイン語を初めとして、フランス語、イタリア語、ポルトガル語、カタルニア語、英語、ドイツ語、オランダ語、スエーデン語、ロシア語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語、サンスクリット語、など、10数ヶ国語を習得し、絵画と彫刻を研究するために、美術専門学校に通い、フェンシング、射撃の訓練も行ったそうです。

ノリ・メ・タンヘレ(Noli Me Tangere)

noli me tangere1887年、リサールは「ノリ・メ・タンヘレ(Noli Me Tangere)」、我に触れるなをベルリンで公刊し、 1888年2月香港に渡り、同月日本に来日し4月まで東京都(旧東京府)内に滞在しています。これを記念して東京の日比谷公園にはホセ・リサール記念像が設置されています。 後に、アメリカを経由してイギリス・パリと移動し、1891年ベルギーのヘント(Ghent)で彼の第2の小説「エル・フィリブステリスモ(El Filibusterismo)」)反逆を出版します。両方ともスペイン語で書かれていますが、スペイン圧政下に苦しむ植民地フィリピンの現状が克明に描き出されていた、フィリピン人の独立への機運を高めたと言われています。

ラ・ソリダリダード(La Solidaridad)

ラ・ソリダリダード(La Solidaridad)リサールは政治的独立を目指す革命志向家では無く、フィリピン人たちの生活改善を願う改革者でした。 バルセロナでスペイン在住のフィリピン人留学生たちを組織してプロパガンダ運動を始め、雑誌「ラ・ソリダリダード(La Solidaridad)」連帯を創刊しました。そこで彼の打ち出した運動の方向性は下記のようなものでした。
  1. フィリピンはスペインの一地域であること。
  2. スペイン政府議会へのフィリピン代表派遣の権利が認められるべきこと。
  3. スペイン人の聖アウグスチノ修道会員、ドミニコ会員、フランシスコ会員でなくフィリピン人聖職者の養成を行うこと。
  4. 言論の自由が認められるべきこと。
  5. フィリピン人に法律的平等が与えられること。

フィリピン同盟(La Liga Filipina)

フィリピン同盟(La Liga Filipina)1892年6月、彼はマニラに帰り、7月に、アンドレス・ボニファシオやアポリナリオ・マビニと共に「フィリピン同盟」を結成します。フィリピン人を協調提携させ、学術・技芸の向上をはかり、産業・貿易の利益を促進させることを目的としましたが、スペイン統治者はこれをスペイン本国とフィリピンを分離させようとする陰謀を企てた疑いがあるとして、リサールを危険視し、ミンダナオ島のダピタン(Dapitan)、現在のサンボアンガ・デル・ノルテ州へ追放されました。4年間ここで、リサールは病院と学校を造り住民の啓蒙につとめました。

投獄

サンチャゴ要塞1896年7月、流刑生活が終わり、キューバでのスペイン軍医を志願してスペインに到着しましたが、アンドレス・ボニファシオ率いるカティプナンの独立闘争が開始され、スペイン到着と同時に逮捕され、マニラに送還されサンチャゴ要塞(Fort_Santiago)に投獄の後、裁判により、暴動の扇動容疑で銃殺刑が宣告されます。

わが最後の別れ(MI ULTIMO ADIOS)

わが最後の別れ(MI ULTIMO ADIOS)リサールは処刑の前日の1896年12月29日の0時から5時の間にこの詩を書いたそうです。『1896年12月29日の午後に、リサールのところへ彼の母、2人の妹と2人の甥が訪問し、リサールはアルコールストーブ(cocinilla)に何かがあると妹のトリニダード(Trinidad)に英語で話します。家族が帰ろうとしているときに、アルコールストーブが護衛によって妹のナーシャ(Narcisa)に渡されます。アルコールストーブには、折り重ねられた無記名・無題そして、日付のない詩が書かれたメモが入っていました。』 リサールの遺言となった2枚の小さな紙は、カビーテ(Cavite)でコピーされて、献身的な愛国心が、より革命家の国家主義的な熱意を示唆しました。 詩は、1897年に香港で発表され、わが最後の別れ(MI ULTIMO ADIOS)は国際的に有名になりました。

最後

リサール記念碑キューバで医療奉仕するなら処刑は取り消せると提案されましたが、リサールは断り、故国のために死ぬ事を選び、1896年12月30日にルネタ(Luneta)で銃殺されました。リサール、亨年35歳。リサールが処刑されたマニラ湾を見渡す地は現在、リサール公園(旧ルネタ公園)として整備されており、銃殺された場所には記念碑が建てられ、衛兵に24時間守られています。
リサールの死後も革命運動は継続され、1898年には米西戦争が勃発し、アメリカがフィリピン統治権を獲得し、以後は対米独立運動へと引き継がれていきます。