フィリピンの歴史(History of the Philippines)
ホセ・リサール(Jose Rizal)
![ホセ・リサール(Jose Rizal)](images/rizal_thumb.jpg)
リサールの生家
フルネームはホセ・プロタシオ・メルカド・リサール・アロンソ・イ・レアロンダ(Jose Protacio Mercado Rizal Alonzo y Realonda)。
父方のメルカド家は中国・福建省の晋江から17世紀にフィリピンに渡り、フィリピン先住の女性と結婚した商人で、父フランシスコ・メルカド(Francisco Mercado Rizal)はラグナ州(Laguna)ビニャン(Binan)で1818年に生まれました。 母方のアロンソ家はスペイン人とフィリピン先住民の混血の家系で、母テオドラ・アロンソ(Teodora Alonzo y Quintos)は、マニラ(Manila)のサンタクルス(Santa Cruz)で1827年11月9日に生まれました。 ホセ・リサールは、3歳のときに母親からアルファベットを学び、5歳のときには読み書きができたそうです。彼はまた鉛筆画によるスケッチや粘土のモールドで家族や親類を驚かせたそうです。
1869年、8歳のときに、タガログ語の詩、サ・アキン・マガ・カバタ(Sa Aking Mga Kabata)を書きます。
当時、フィリピン土着人はスぺイン人から「インディオ」と呼ばれ、フィリピン人はスペイン人に対して大きな劣等感がありました。リサールの母親がスペイン人官憲に挨拶をしなかったということで警察に連行され、2年間、投獄されたそうです。そのとき、5歳のリサールは、ラグーナ湖のほとりで「なぜ、フィリピン人やフィリピン語が、白人社会から見下げられるのか」ということを考え込んでいたそうです。この詩は、同時代の人々に彼ら自身の母国語を受け入れるよう希望する意味が込められていました。
内容(Contents)
タガログ語(Tagalog)
マゼランが 1521年4月7日にフィリピンのセブ島に上陸して、スペインの統治が始まり、その後1863年まで、フィリピン人の子供は高等教育機関には進めませんでした。スペイン国王は当時、すべての植民地に学校を作り、スペイン語で学ばせるように命令を出していましたが、移住したスペイン官僚は、島々で言葉の違うフィリピン人がスペイン語を母国語として教育を受ければ、協調が生まれやがて反乱が起こることを警戒し、積極的に、スペイン語の普及政策を行ないませんでした。教育(Education)
![サント・トマス大学(University of Santo Tomas)](images/santo_tomas_thumb.jpg)
1882年リサールはスペインのマドリッドに留学し、マドリード・コンプルテンセ大学(Universidad Complutense de Madrid, UCM)で医学の勉強を続け、1883年にフリーメーソン(Freemason)に加入します。1884年に医学コース終了し、1885年6月19日に医学博士の学位を授与されると、さらにハイデルベルク大学とパリ大学で医学の勉強を続けました。
1987年、26歳までにスペイン語を初めとして、フランス語、イタリア語、ポルトガル語、カタルニア語、英語、ドイツ語、オランダ語、スエーデン語、ロシア語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語、サンスクリット語、など、10数ヶ国語を習得し、絵画と彫刻を研究するために、美術専門学校に通い、フェンシング、射撃の訓練も行ったそうです。
ノリ・メ・タンヘレ(Noli Me Tangere)
![noli me tangere](images/noli_me_tangere_thumb.jpg)
ラ・ソリダリダード(La Solidaridad)
![ラ・ソリダリダード(La Solidaridad)](images/la_solidaridad_thumb.jpg)
- フィリピンはスペインの一地域であること。
- スペイン政府議会へのフィリピン代表派遣の権利が認められるべきこと。
- スペイン人の聖アウグスチノ修道会員、ドミニコ会員、フランシスコ会員でなくフィリピン人聖職者の養成を行うこと。
- 言論の自由が認められるべきこと。
- フィリピン人に法律的平等が与えられること。
フィリピン同盟(La Liga Filipina)
![フィリピン同盟(La Liga Filipina)](images/Estatuto_de_la_L.F_thumb.jpg)
投獄
![サンチャゴ要塞 サンチャゴ要塞](../../Travel/08/photo/santiago1_thumb.jpg)
わが最後の別れ(MI ULTIMO ADIOS)
![わが最後の別れ(MI ULTIMO ADIOS)](images/mi_ultimo_adios_thumb.jpg)
最後
![リサール記念碑](../../Travel/08/photo/rizal_park1_thumb.jpg)
リサールの死後も革命運動は継続され、1898年には米西戦争が勃発し、アメリカがフィリピン統治権を獲得し、以後は対米独立運動へと引き継がれていきます。