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序論(Introduction)

ラ・ソリダリダードの編集者 ラ・ソリダリダード(La solidaridad)は、「結束」を意味し、1888年12月13日にスペインで作られた組織でした。
スペイン本国では当時、個人の権利や言論、集会、出版、宗教の自由が広く認められていました。しかし、スペインの一部であるはずのフィリピンにだけは、それが全く認められず、民族主義者や自由主義者の取り締まりはひどくなる一方で、活動家はスペイン本国や欧州に脱出していきました。彼らは、フィリピン人を啓蒙すると同時に、スペイン本国と全世界へ向けて「スペイン統治の差別性とフィリピンの現状」を新聞や小説などの形で精力的に訴えていきました。

写真左からホセ・リサール(Jose Rizal)、マルセロ・デル・ピラール(marcelo H. del pilar)、マリアノ・ポンセ(Mariano Ponce)


内容(Contents)

ラ・ソリダリダード(La solidaridad)発刊

雑誌「ラ・ソリダリダード(La solidaridad)」 ラ・ソリダリダード(La solidaridad)の社長はホセ・リサール(Jose Rizal)のいとこ、ガリカーノ・アプシーブレ(Galicano Apacible)でした。他の役員のうち、副社長は、グラシアーノ・ロペス・ハエナ(Graciano Lopez-Jaena)、会計がマリアーノ・ポンセ(Mariano Ponce)でした。当時のロンドンにいたリサールは、名誉会長に選ばれました。それは、スペインでフィリピン人を結びつけて、彼らの努力を調整するには、リサールの名声とマルセロ・H.・デル・ピラール(Marcelo H. del Pilar)の政治的知恵が必要でした。
その最初の編集者はグラシアーノ・ロペス・ハエナ(Graciano Lopez-Jaena)でした、その後、彼の後にマルセロ・H.・デル・ピラール(Marcelo H. del Pilar)が続きました。ラ・ソリダリダード(La solidaridad)は、すべてのその形で反応と戦う仕事を専門とする自由な、改革派の方針による政治宣伝新聞でした。 1889年2月15日に、ラ・ソリダリダード(La solidaridad)の最初の号が出版され、その社説は目標を表現していました。
『我々の望みは控え目です、大変、控え目です。 我々の計画は、単純であることを除いて、明白です。 進展を擁護するために、自由主義の考えを絶賛して、採用するために、すべての逆行的なステップを止めるために、反応と戦います。 一言で言えば、宣伝活動家であるために、これらをここのすべての国で、そして、海の全域で最高にするために適切な民主主義の考えの上に。ラ・ソリダリダード(La solidaridad)の目的は、政治、科学、アート、文学、商業、農業、および産業のフィールドに明示される急進的自由主義のアイデアを収集するためです。 さらに、我々は、国の一般的な関心に関してすべての問題も検討して、高水準な民主主義の方法で、それらの問題の解決も捜します。』

編集者

6年の間、多数の編集者が、ラ・ソリダリダード(La solidaridad)に貢献しました。最も多産な貢献者の一人は、リサールの親友フェルディナンド・ブルーメントイット(Ferdinand Blumentritt)で、フィリピンの利益の熱のこもった弁護は同様に新聞の他の筆者と読者に感動を与えたと言われています。

アントニオ・ルーナ(Antonio Luna)
アナスタシオ・カーピオ(Anastacio Carpio)
マリアーノ・ポンセ(Mariano Ponce)
アントニオ・マリア・レヒドラ(Antonio Ma. Regidor)
ホセ・マリア・パガニバ(Jose Ma. Panganiban)
イサベロ・デロス・レイエス(Isabelo delos Reyes)
エドワルド・デ・レテ(Eduardo de Lete)
ホセ・アレハンドリーノ(Jose Alejandrino)
ペドロ・パテルノ(Dr. Pedro Paterno)

停刊

10年以上にわたる運動にも関わらず、スペインの支配階級からは何の兆候も現れませんでした。また資金不足を主な原因として「ラ・ソリダリダッド(La solidaridad)」誌も1895年11月15日をもって停刊となり、マルセロ・H.・デル・ピラール(Marcelo H. del Pilar)が最後の社説を書きました。
『We are persuaded that no sacrifices are too little to win the rights and the liberty of a nation that is oppressed by slavery.』

(私達は、どの犠牲も小さすぎないので、奴隷制度により圧迫される国家の権利と自由を勝ち取ることができないことを確信させられています。)

マルセロ・H.・デル・ピラール(Marcelo H. del Pilar)が飢えと非常な窮乏に起因する結核で死ぬ前に、文化融合論者姿勢を拒絶して、武装した反乱を計画し始めます。彼は、この信念を活発に主張しました、「特に悪のために治療を確保してやる平和的な手段が無駄であるとわかるという確信を人々が得たとき、反乱は最後の治療です。」 この考えは、アンドレス・ボニファシオ(Andres Bonifacio)の革命組織カティプナン(Katipunan)に影響を与え、マルセロ・H.・デル・ピラール(Marcelo H. del Pilar)は、1896年7月4日にバルセロナで肺結核のため亡くなります。 マルセロ・H.・デル・ピラール(Marcelo H. del Pilar)の好戦的で進歩的な展望は、フランスの社会哲学者の古典的な啓蒙主義の伝統と、ヨーロッパのブルジョア階級の科学的な経験主義に由来しました。 フリーメーソンによって、この展望の一部は、送信されました。 1962年に発行された5ペソ紙幣にはマルセロ・H.・デル・ピラール(Marcelo H. del Pilar)とグラシアーノ・ロペス・ハエナ(Graciano lopez jaena)の肖像が使用されています。

協力者

マルセロ・H.・デル・ピラール(Marcelo H. del Pilar)
ホセ・リサール(Jose Rizal)
マリアーノ・ポンセ(Mariano Ponce)
アントニオ・ルーナ(Antonio Luna)
ホセ・マリア・パガニバ(Jose Ma. Panganiban)
ペドロ・パテルノ(Dr. Pedro Paterno)
アントニオ・マリア・レヒドラ(Antonio Ma. Regidor)
イサベロ・デロス・レイエス(Isabelo delos Reyes)
エドワルド・デ・レテ(Eduardo de Lete)
ホセ・アレハンドリーノ(Jose Alejandrino)


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