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序論(Introduction)

パシグの戦い(War of Pashigu)米比戦争(Philippine-American War)は、1899年2月4日、アメリカ支配側に立ち入ったとされるフィリピン兵が射殺され、当時の第25代アメリカ合衆国大統領、ウィリアム・マッキンリー(William McKinley)は、この事件はフィリピン側によるマニラ市内への攻撃であったと新聞に語り、責任をフィリピン側に求め、米比戦争へと発展します。8月14日には、11,000人の地上部隊がフィリピンを占領するために送られてきました。戦争はフィリピン国家主義者の独立に対する望みを絶つために行われ、反抗するフィリピン人60万人を虐殺します。
写真は、1899年3月15日のパシグの戦い(War of Pashigu)。ユタ州義勇軍の砲兵。アメリカ人1人死亡、3人が負傷し、フィリピン人の死亡は400人と推定されています。

(Photograph from Wikipedia)

内容(Contents)

19世紀半、スペインは次々と領土を失い、残された植民地は、キューバ(Cuba)、プエルトリコ(Puerto Rico)、フィリピン(Philippines)、グアム(Guam)周辺、現在の赤道ギニア(Equatorial Guinea)と西サハラ(Western Sahara)でした。 1880年代以降になると、キューバ(Cuba)とフィリピン(Philippines)で独立運動が盛んになり、スペイン政府は弾圧を繰り返していました。
国内でフロンティアの消滅した米国は、国民世論を動員して膨張政策をとっていました。アジアに拠点を求める米国は1854年ペリーにより日本を開国させましたが、日本はその後明治維新で統一し、米国の植民地化を阻止しました。
1897年11月18日〜12月15日にかけて、スペイン総督とフィリピン独立派の和平交渉を進め、総督の出した和平の条件は、反乱軍全員の赦免、武器の引き渡しと交換に指導者は日本か香港に亡命、そして170万ペソの支払いでした。 エミリオ・アギナルド(emilio aguinaldo)はこの条約に従い、40万ペソ(当時の金額で20万ドル)を受け取って香港へ亡命していきます。アギナルドはフィリピン出航に際し集まった群衆に向かって『スペイン、スペイン皇帝、総督、平和、および永遠のスペイン領のフィリピンに万歳』と叫んだと言わて言われいます。 その後、スペイン当局は、アギナルドに40万ペソを渡し、20万ペソを国内の革命指導者たちに分配した残りの110万ペソを支払いませんでした。また特赦はされず、多くのフィリピン人が逮捕投獄され、約束は遵守されませんでした。フィリピン人たちは、各地でアンドレス・ボニファシオ(Andres Bonifacio)の意志を継いで「独立」を求めて立ち上がり、平和条約はフィリピンに平和をもたらしませんでした。
米艦隊のデューイ提督は、香港にいたアギナルドに接触し、フィリピンの独立支援を名目に米軍への協力を要請します。米国がアギナルドを必要としたのは「革命援助に介入する大義がほしい」ということでした。1898年5月19日、アギナルドら亡命指導部は、米軍を後盾にフィリピンへの帰還を果たし、アギナルドはカビテで「独裁政権」の樹立を宣言し、6月12日には独立宣言を発し「独裁政府」大統領に就任します。
スペインは米西戦争で、太平洋艦隊、大西洋艦隊を失い、交戦状態は1898年8月12日に停止します。米国は、フィリピンに対して、米国は、米西戦争で「フィリピン独立の支援」を大義として介入しましたが、パリ条約においてスペインから2,000万ドルでフィリピンを購入し、自国の植民地にしようとしました。アギナルド政権を承認しない米国はアギナルドの占領に対する抗議を相手にせず、軍政長官はアギナルドの抗議を「米国に対する戦争準備に等しい」として、米軍を次々と増員させ、戦争に備えました。1899年2月4日、アメリカ支配側に立ち入ったとされるフィリピン兵が射殺されます。マッキンリーは、この事件はフィリピン側によるマニラ市内への攻撃であったと新聞に語り、責任をフィリピン側に求め、米比戦争へと発展します。圧倒的な武力差で弾圧し、1899年11月、アギナルドは家族とわずかな兵だけで各地を逃亡するようになり、1901年3月に米軍に逮捕され、1902年7月4日の平定宣言でフィリピンにおける植民地支配を確立します。 この戦争における戦死者は米兵4000人、フィリピン兵14000人に、病死や餓死などを含めて一般人20万人だったそうです。
植民地化の過程で、アメリカに忠誠を誓うことと引き替えに、革命を指導していた地主を中心とする植民地社会のエリートを優遇して自治付与も進める植民地政策を展開しました。その結果、フィリピンでは米比戦争の過去は忘れられ、地主エリートをはじめとして多くの人々が、アメリカのもたらした「新時代」に適応して、そのなかで成功をめざしました。

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