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フィリピンの歴史(History of the Philippines)

米西戦争(American Spanish War)

USS Maine BB-10米西戦争(American Spanish War)は、1898年2月15日にキューバ、ハバナ湾で米海軍の戦艦メイン(USS Maine)が爆発、沈没し260名の乗員を失う事故が発生、当時の米国のメディアは、この事件を「スペイン側の陰謀」「リメンバー・メイン」などの好戦的で感情的な報道をしました。これは、一層米国民を刺激することとなりました。 1898年4月11日、第25代アメリカ合衆国大統領ウィリアム・マッキンリー(William McKinley)は内戦の終了を目的としてキューバへ米軍を派遣する権限を求める議案を議会に提出し、1898年4月19日に議会にて承認されます。 1898年4月25日に連邦議会はアメリカとスペインの間の戦争状態が4月20日以来存在することを宣言します。戦争開始と同時に、前年の1897年より香港に停泊して出撃準備を整えていた米国アジア艦隊は、1898年5月1日フィリピンへと向かい、マニラのスペイン艦隊を全滅させ、1898年7月25日にはプエルトリコを占領します。

(Photograph from U.S. Naval Historical Center)

内容(Contents)

19世紀半、スペインは次々と領土を失い、残された植民地は、キューバ(Cuba)、プエルトリコ(Puerto Rico)、フィリピン(Philippines)、グアム(Guam)周辺、現在の赤道ギニア(Equatorial Guinea)と西サハラ(Western Sahara)でした。 1880年代以降になると、キューバ(Cuba)とフィリピン(Philippines)で独立運動が盛んになり、スペイン政府は弾圧を繰り返していました。1895年にキューバで、ホセ・マルティー(Jose Marti)が指導する独立運動が大きな盛り上がりを見せ状況は危機的になります。
国内でフロンティアの消滅した米国は、国民世論を動員して膨張政策をとっていました。アジアに拠点を求める米国は1854年ペリーにより日本を開国させましたが、日本はその後明治維新で統一し、米国の植民地化を阻止しました。
一方、 内乱状態が続いていたキューバでは、1892年、ホセ・マルティー(Jose Marti)が「キューバ革命党」をニューヨークに設立し、米国政府はキューバの反乱勢力支持を打ち出して、スペインに警告を発していました。 当時、イエロー・ペーパー(yellow paper)と呼ばれる新聞、「ニューヨーク・ワールド(The New York World)」と「ニューヨーク・ジャーナル(New York Journal )」がありました。彼らは、スペインのキューバ人に対する残虐行為を誇大に報道し、アメリカ国民の人道的感情を刺激したと言われています。そのスペイン攻撃が激しければ激しいほど、新聞は発行部数を伸ばしていきました。 このような報道のあり方を「イエロー・ジャーナリズム(Yellow Journalism)」と呼び、多彩な形容詞と誇張の使用や、迅速さを優先して事実検証不足のニュース速報あるいは全出来事の慎重な偽造によって作り出された物語などのような形式とったもので、特にアメリカ合衆国で、19世紀を通じて発行部数と読者数を極度に増加させました。 1896年にフィリピン革命戦争が勃発すると「独立を支援する」という名目で介入し、両国の間の緊張が高まっていきます。そしてキューバ人の反乱が激化した1898年1月に、米国政府はキューバ在留米国人の保護という名目で海軍の派遣を決め、戦艦メイン号をハバナ港に送ります。そして2月15日の夜、メイン号は突然爆発を起こし沈没し、260名が死亡します。 米国海軍省の直後の調査では爆発の原因を特定できませんでしたが、多くのジャーナリズムや一部議員たちは、この爆発をスペインが仕掛けた機雷によるものと決め付け、新聞が「リメンバー・ザ・メイン!」と煽り立て、1898年4月25日に一方的に戦争を宣言し、1898年5月1日のマニラ湾海戦(Battle of Manira Bay)でスペイン太平洋艦隊を全滅させ、1898年7月3日のサンチャゴ・デ・キューバ海戦(Battle of Santiago de Cuba)では4時間でスペイン艦船をすべて撃沈、両方の戦いで、米軍の被害は死者1名、負傷者10名で、スペインの死傷者は、戦闘で2,000名、病気で15,000名と戦いは米国の一方的な勝利に終わります。 戦争後にキューバは、アメリカの保護の下に独立し、米資本による収奪が開始されます。 また、フィリピンに対しては、当初「独立派を支持」していましたが、1898年12月のパリ条約によってスペインから2,000万ドルで買い取り植民地としました。フィリピンはすでに6月に独立宣言をしていましたが、米国はスペインと同様に独立派勢力に対し徹底的な弾圧を加え、1899年から2年間にわたる米比戦争(Philippine-American War)の果てに独立派勢力を壊滅させます。