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旅の話題 (Topics of travel)

中華民国(台湾)の故宮文物

中華民国(台湾)は、1911年に孫文指導の革命により、1912年に清が滅び、中国国民党により、中国を統治する国家として成立しました。しかし、1949年に中国共産党との内戦において、中華民国は崩壊状態となり、中華人民共和国が成立しました。中国国民党政府は台湾島に遷都し、台湾地域及び金馬地区などのみを統治する国家として再編成され、中国を統治する唯一の正統な国家としての権利を主張する二つの政府が並立する事となりました。1971年に、国際連合で中華人民共和国が「中国」の代表権を取得してからは多くの国が中華人民共和国を「正統な中国政府」として承認しています。日本政府は、1972年以降は中華民国を国家として承認していないため、公式には「中華人民共和国内の台湾地域」として中華民国を扱っています。
台湾になぜ中国歴代王朝の宝物を納めた故宮博物院があるのでしょうか。故宮博物院の宝物は、宋(960年−1279年)、元(1271年−1368年)、明(1368年−1644年)、清(1616年−1912年)の中国歴代王朝の収集品で、北京の紫禁城内部に蔵されていました。

年表(Chronology)

  • 1912年、清が滅び、孫文を臨時大総統とする中華民国が南京に成立しました。孫文は、袁世凱(えんせいがい)に総統の座を譲り、袁世凱が臨時大総統職に就任します。
  • 1916年、袁世凱は皇帝に即位し国号を「中華帝国」に改めるなどの独裁が始まると各地で内乱が起き、1916年に袁世凱は退位します。
  • 1914年、紫禁城南側の外廷に古物陳列所が設置されました。
  • 1925年、故宮博物院が発足し、紫禁城の内廷が展示場所として公開されました。城内には書画、古典籍、陶磁器、古鏡、青銅器、装飾品など100万点を超える文物が収蔵されていました。
  • 1928年、蒋介石(しょうかいせき)が中国国民党を支持基盤とする南京国民政府を樹立します。
  • 1933年、中華民国政府は戦火を避けるために故宮文物を列車に乗せて上海に移します。
  • 1937年、日本と南京国民政府との間で日中戦争が勃発し、南京国民政府は重慶へ撤退します。
  • 同年、戦火が激しくなる中、中華民国政府は故宮文物を、、鉄道や自動車で転々と移動し、四川省巴川県、四川省楽山、四川省峨眉へと移します。
  • 1938年、日本の支援によって汪兆銘((おうちょうめい)を首班とする汪兆銘・国民政府が南京に成立します。
  • 1945年、日本は第2次世界大戦に敗北し、汪兆銘・国民政府が崩壊します。南京国民政府が国際連合に「中国」代表として加盟し、安全保障理事会における常任理事国の地位を獲得します。蒋介石が毛沢東と会談(国共首脳会談)
  • 1947年、戦後の混乱の中、故宮文物は南京に戻ります。
  • 同年、日本との戦いで共同戦線を組んでいた国民党と中国共産党の内戦が再開します。
  • 1948年、劣勢となった国民党は、故宮文物を3回に分けて軍艦や商船で台湾へと搬送します。運び出された故宮文物は青銅器や書画、陶磁器、七宝などの古文物が5249点、四庫全書や経典などの図書が157,602冊、宮中当案などの文献が204箱、中央博物院の所蔵品から852箱が搬出されました。これは、北京・故宮博物院から運び出された文物の、約22%にあたるそうです。運び出された故宮文物が現在の台北・故宮博物院の根幹となっています。
  • 1949年、ソビエト連邦からの全面的な支援を受けた共産党軍の攻撃を受け、中華民国軍が敗退。南京国民政府が崩壊状態に陥ります。蒋介石は、崩壊状態にある南京国民政府を台湾へ移転し、実効統治区域内で戒厳令を実施しました。
  • 1965年、台湾に移された文物のために、現在地に台北・故宮博物院が建設されました。「国父」とされる孫文の字を冠して「中山博物院」とも呼ばれています。

故宮文物

故宮文物は、台北市北部の士林区にある国立故宮博物院に収蔵されていて、書画、銅器、磁器、玉細工、漆器、彫刻など、古美術品の収蔵点数は70万点に達すると言われています。

参考
国立故宮博物院ホームページ( http://www.npm.gov.tw/)
国立故宮博物院ガイドブック