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トラップ射撃(Trap_shooting)

ライブ・ピジョン・シューティング(Live Pigeon Shooting)トラップ射撃(Trap shooting)は18世紀後半にイギリスで開発されたと言われています。最初のターゲットは、生きた鳥で、ライブ・ピジョン・シューティング(Live Pigeon Shooting)と呼ばれました。トラップとして知られているケージのフタの部分が地表から見えるように地面に埋め、その中に生きた鳥を入れます。射手はこの箱から19m離れた場所に立ちます。箱のフタには、紐が取り付けられ、フタはスライドして開く構造になっています。射手はショットガンを射撃可能な状態で持ち、鳥が飛び立つのを待ちます。プーラーと呼ばれる人が、このフタに付けられた紐を引きます。紐が引かれてフタが外れると鳥は飛び立ち、射手はその鳥を撃ちます。このゲームは、18世紀中期から後期に掛けて、英国とヨーロッパで盛んに行われるようになります。
  スポーツとしては、19世紀初頭に米国で最初に行われ、19世紀半ばにはオハイオ(Ohio)州、シンシナティ(Cincinnati)、及びニューヨーク市(New York City)エリアで人気があったそうです。その後、生きたハトの希少性から、米国のトラップ射撃愛好家は人工的なターゲットを作成するようになります。
  ライブ・ピジョン・シューティング(Live Pigeon Shooting)は、鳥撃ち猟をスポーツの形にしたものであると同時に、クレー射撃の原点と言えます。絵は、1865年に、ロンドンのホンジーの森(Hornsey wood)で行われた貴族によるピジョンシューティング(pigeon shooting)の様子。

(picture from The Illustrated sporting news.)

トラップ射撃の歴史

  • ホイールロック(Wheel lock)1517年、ドイツのニュルンベルクの領域で、ホイールロック(Wheel lock)が考案されます。着火方法は、ゼンマイで回転する歯車によって生じた火花で着火しました。

  • フリントロック二連銃(Flint lock double barrel)1620年、フランスのマルタン・ル・ブルジョワ(Marin le Bourgeoys)によってフリントロック(Flintlock)が考案されます。マスケット銃などの火器で使われた点火方式の1つで、引き金を引くと、火縄の替わりにフリント(Flint)、火打石が取り付けられた撃鉄が作動して、フリント(Flint)が当たり金(striking surface)にぶつかり、火花を出して点火薬に着火する方式の銃でした。

  • ショットガン・シェル(Shotgun shell)1782年、イギリス、ブリストル(Bristol, England)の、ウィリアム・ワッツ(William Watts)が、溶解した鉛を空中から水中に落とし、鉛の表面張力が水よりも大きくなることを利用し、精度の高い球体の、散弾の生産を始めます。ウィリアム・ワッツ(William Watts)は、現代のショットガン・シェル(Shotgun shell)の父として知られています。

    (Photograph by Doddi Halldors)



  • 1807年、スコットランドの牧師、アレキサンダー・ジョン・フォーサイス(Alexander John Forsythe)が、雷酸塩(Fulminate)を起爆剤とした、銃の新しい点火方法の特許を取得。外部から打撃を加えると発火するもので火門や点火孔をふさいでも衝撃によって点火させることができました。
  • 1808年、スイスのサミュエル・ポーリー(Samuel Johannes Pauly)が、雷酸塩を詰めた紙の雷管の特許をフランスで取得します。
  • パーカッション・ロック(Percussion lock)1822年、アメリカのジョシュア・ショウ(Joshua Show)がパーカッション・ロック(Percussion lock)考案します。薬室の上に突き出た火門に雷管のキャップを被せ、撃鉄で叩いて発火させる方式の銃です。

  • ピンファイアー・ショットガン(Pinfire shotgun)1828年、フランスの、カシミール・ルフォシオ(Casimir Lefaucheux)が最初の金属薬莢ピン・ファイアー式を開発し、1835年に特許を取得します。銅製の管体に火薬と雷管を詰め、底の部分から突き出したピンを強打すると内部にある雷管が激発し、火薬に点火する仕組みとなっていました。

  • ショットシェル(Shot shell)1830年、フランスのカシミール・ルフォシオ(Casimir Lefaucheux)が散弾銃の実包、ショットシェル(Shot shell)を発明します。

  • 1831年、アメリカで最初のライブ・ピジョン・シューティング(Live Pigeon Shooting)が、シンシナティのスポーツメンズ・クラブで行われました。そのとき、使われた鳥は、リョコウバト(Passenger pigeon)でした。その後、鳥はイエスズメ(English sparrow)に代わります。やがてこのスポーツはアメリカの他の地域にも広がり、盛んになっていきます。
      当時、すでにこのゲームでは100点が満点でした。一人の射手が100羽の鳥を撃つわけですから、多人数でおこなった場合、用意する鳥の数は大変なものでした。そこで、生きたハトの希少性から、米国のトラップ射撃愛好家は人工的なターゲットを作成するようになります。
  • フィオッキ・フロベール9mm(fiocchi flobert 9mm)1847年、フランスの銃工、ルイ・ニコラス・オーギュスト・フロベール(Louis Nicolas August Flobert)が、リムファイアー(Rimfire)を発明。リムファイアーは、銅製の莢底の周囲に雷汞(らいこう)を流し込み固めた薬莢で、莢底の縁のどこを撃っても撃発しました。後にスミス&ウェッソン社が、この特許を買い取ることになります。

  • Glass ball1866年、イギリスでターゲットにガラスの玉が使われ始め、ボストンのチャールズ・ポートロック(Charles Portlock)は、アメリカにこれを紹介します。しかし、当初の放出器は10ヤード程度しかガラス球を飛ばすことができなかったそうですが、大会は行われたそうです。ガラスボールは、直径2.25インチ(約57mm)で、無色透明でしたが、見えにくいため、緑やアンバーに着色が加えられました。ガラスの表面に羽根を植えつけたものもあったそうです。

    (Photograph from Glass Target Ball)



  • 同年、英国ニューカッスル(Newcastle)の、ウィリアム・ロチェスター・パペ(William Rochester Pape)がチョークの英国特許を取得します。No.1501
    彼の特許はブリーチローディングでした。
  • 1868年、米国の、フレッド・キンブル(Fred Kimble)がチョークのU.S.特許を取得します。彼の特許は可変チョーク(adjustable choke)でした。
  • 1873年〜4年(明治6年〜7年)、神奈川県橘樹郡生見尾村(うみおむら)字鶴見二見臺(現、横浜市鶴見区鶴見1丁目)で放鳥射撃場が開設され、初期は不明ですが後に児島惟謙(こじまこれかた)氏が会長となります。 日本の射撃 arrow
  • 1874年、英国バーミンガム(Birmingham)の、ウィリアム・ウェリントン・グリーナー(William Wellington Greener)がチョークの英国特許を取得します。
  • 1876年、ペイニー(I,A, Paine)が、ガラス玉を投げるための放出器を発明します。  U.S.Patent 175,870 PDF arrow
  • ボガーダス放出器1877年、アダム・ボガーダス(Adam Henry Bogardus)が、ガラス玉を投げるための放出器を発明します。 U.S.Patent 188,334 PDF arrow

    (Photograph from On Target!)



  • クレー・ピジョン・ターゲット(Cray Piegon Target)1880年、オハイオ(Ohio)州のジョージ・リゴウスキー(George Ligowsky)が、石灰にピッチを混入して焼き固める、クレー標的(Cray target)を考案し、米国特許を取得します。 U.S.Patent 231,919 PDF arrow
      ニューヨーク州コニーアイランドで射撃イベントがあり、クレー・ピジョン・ターゲット(Cray Piegon Target)を使うバード・シュートが紹介され、射撃クラブが全国に誕生し始め、アダム・ボガーダス(Adam Henry Bogardus)はこの射撃の共通ルールを作ります。
    • 10ヤード間隔に3つの放出器を直線状に配置します。左の放出器からは、左方向にターゲットを放出する。真ん中の放出器は真っ直ぐの方向にターゲットを飛ばし、一番右の放出器からは右方向にターゲットを放出します。この直線状の放出器ラインから18ヤード後方にシューターは立ちます。シューターから6フィート後方には、トラップを操作するプーラーがいて、ターゲットをどの方向に飛ばすかは、レフリーが決めます。レフリーは番号を書いた札をポケットから出し、プーラーに指示します。
    このアダム・ボガーダス(Adam Henry Bogardus)のルールが現在のトラップ射撃のベースになっています。

  • ペオリア・ブラックバード(Peoria Black Bird)1884年、インターナショナル・クレーピジョン・トーナメントが開催された。同じ年にフレッド・キンブル(Fred Kimble)はチャーリー・ストック(Charlie Stock)と協力して競技用クレー・ターゲットを開発します。これは粘土を焼き固めたジョージ・リゴゥスキー(George Ligowsky)のクレー・ターゲットの改良型で、コールタールや松脂が使用されていました。黒光りしていたことで、ペオリア・ブラックバード(Peoria Black Bird)と呼ばれました。

    (Photograph by Rick Cicciarelli)



  • 1885年2月11日に、ジョージ・リゴウスキー(George Ligowsky)は、標準化されたクレー・ピジョン・ターゲット(Cray Piegon Target)を使用した、初のトラップ射撃全国大会をルイジアナ州、ニューオーリンズで行ないます。ドクカーバー(Doc Carver)がチャンピオンを獲得します。
  • アマチュアトラップ射撃協会(Amateur Trapshooting Association)1889年、アメリカントラップ射撃協会(American Trapshooting Association)が設立されます。後に、アマチュアトラップ射撃協会(Amateur Trapshooting Association)となります。

  • 1900年、アメリカ初のクレー射撃チャンピオンシップが行なわれます。初代チャンピオンはローラ・ヘイケス(Rolla Heikes)でした。スコアは91点(100点満点)でした。この時代のトラップ射撃は、現在のものとはいろいろな部分で違いがあり、使われた銃は、8ゲージ、または10ゲージの水平二連銃でした。
  • パリオリンピック最初のトラップ射撃同年、パリオリンピック(Paris olympics)で最初のトラップ射撃(Trap shooting)が行われ、ベルギー(Belgium)のレオン・ド・ランデン(Leon de Lunden)選手が、金メダルを獲得します。 トラップ射撃は、生きたハトを使う、ライブ・ピジョン・シューティング(Live Pigeon Shooting)で行われました。
    トラップ射撃の結果は、1位のレオン・ド・ランデン(Leon de Lunden)選手が21羽、2位のモーリス・フォーレ(Maurice Faure)選手が20羽、3位のドナルドマッキントッシュ(Donald MacIntosh)選手が18羽でした。大会の終わりには300羽の鳩の死骸が残ったそうで、以降、ライブ・ピジョン・シューティング(Live Pigeon Shooting)は廃止され、1908年のロンドンオリンピック(London olympics)からは 石灰にピッチを混入して焼き固めた現在のクレー標的(Cray Piegon Target)を使ったクレー・ピジョン・シューティング(Clay pigeon shooting)となります。

    (Photograph from Wikipedia)