序論(Introduction)

マリアーノ・ポンセ(Mariano Ponce)マリアーノ・ポンセ(Mariano Ponce)は、1863年3月23日に、ブラカン州(Bulacan)バリワグ(Baliwag)で誕生しました。 彼は、7人兄弟の長男で、マニラの私立学校で中等教育を終え、コレヒオ・デ・サン・ホアン・デ・レトラン(Colegio de San Juan de Letran)で学士号を取得し、1885年に、サント・トマス(Santo Tomas)大学で医学を学びます。1887年、彼は、スペインへ渡り、マドリード・コンプルテンセ大学(Universidad Complutense de Madrid)で医学の研究を続け、1889年に学位を取得します。
そこで、マルセロ・デル・ピラール(Marcelo del Pilar)、グラシアーノ・ロペスJaena(Graciano Lo pez Jaena)、ホセ・リサール(Jose Rizal)の反スペイン人運動に加わります。ラ・ソリダリダッド(La solidaridad)のアシスタントエディタとして指定され、歴史、政治、社会学と旅行に関した様々な記事を書きました 。
革命が勃発すると、彼は反乱との関連性を持つ疑いで48時間投獄され、その後、別の監禁を回避するためにフランスへ移動し、彼が政権革命の秘書になったホンコンへ移動します。
1898年には、エミリオ・アギナルド(Emilio Aguinaldo)は日本の第一共和政の代表として彼を選び、フィリピン軍のための援助および購入弾薬を請願するために、1898年6月29日に横浜へ渡航します。ポンセ33歳。滞在中に、彼は、日本に亡命していた孫文に出会い、宮崎滔天や犬養毅らの民権派を紹介されます。宮崎や犬飼は、アジアの解放を掲げていたのでポンセに協力し、陸軍参謀本部を動かし、武器・弾薬の援助を得ることに成功します。しかし、軍当局が提供したのは、日本では使用しなくなっていた村田銃などの旧品武器だけでした。さらに中村弥六代議士の斡旋で三井物産から老朽船布引丸を購入します。布引丸は武器、弾薬を積み、7月19日に長崎港を出港しましたが、21日未明、中国の寧波沖合で暴風雨にあって沈没してしまいます。
彼は、妻の宇田川キヨ(Kiyo Udagawa)とマニラへ戻り、その後、ブラカン州(Bulacan)の議員に選ばれ、後に、図書館委員会(Committee on Libraries)の議長に任命されます。1918年5月23日にホンコンの市民病院で亡くなり、現在はマニラのCementerio Del Norteに埋葬されています。(写真は、1899年、横浜のポンセ住居で撮影)


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