フィリピンの紙幣 (Philippine note)
2010年 500 PISO
2010年に発行。
表 「REPUBLIKA NG PILIPINAS」「ANG SALAPING ITO AY BAYARIN NG BANGKO SENTRAL
NG PILIPINAS」「AT PINANANAGUTAN NG REPUBLIKA NG PILIPINAS」「LIMANDAANG PISO」左、11代フィリピン大統領コラソン・C.・アキノ(Corazon C. Aquino) 右、ベニグノ・S.・アキノ ジュニア(Benigno S. Aquino, Jr.)、肖像左、エドゥサ革命(EDSA Revolution)1985。肖像右、マカティ市(Makati)ベニグノ・S.・アキノ記念碑(Benigno
S. Aquino monument)、フィリピンの国章とフィリピン中央銀行(Bangko Sentral ng Pilipinas)のロゴ。
裏 ミマロパ(MIMAROPA)地方、パラワン(Palawan)州の、プエルト・プリンセサ地底河川国立公園(Subterranean
Underground River in Puerto Princesa)、コオオハナインコモドキ(blue naped parrot)、フィリピン南部(Southern
Philippines)の織物の模様。
ベニグノ・S.・アキノ ジュニア(Benigno S. Aquino, Jr.)は、1932年11月27日タルラック州コンセプションで生まれます。愛称が「ニノイ」であったため、ニノイ・アキノという呼び名でも知られています。祖父はエミリオ・アギナルドの側近として活躍し、父ベニグノ・アキノ・シニアもホセ・ラウレル政権の政治家でした。
1954年、反政府グループ、フクバラハップのリーダー、ルイス・タルクを4ヶ月にわたり説得し、タルクは無条件投降します。これにより、ニノイの名声は高まり、22歳でコンセプション市の市長に就任します。同年、後の、11代フィリピン大統領コラソン・C.・アキノ(Corazon Aquino)、と結婚します。
1961年、タルラック州の知事に当選し、1966年には自由党の官房長官に就任します。1967年には35歳で上院議員に当選。これは、現代に至るまで、フィリピン史上最年少での上院議員当選の記録として、いまだ破られていないそうです。
1972年、マルコス大統領により、全土に戒厳令が敷かれます。反政府側の危険人物とされたニノイは、政府転覆の陰謀と武器の不法所持、殺人などの容疑で、逮捕、投獄され、1977年に死刑を宣告されますが、1980年、アメリカ合衆国で手術を受けさせるという名目で、ニノイはフィリピンから追放されます。
1983年8月21日、ニノイを乗せた中華航空811便がマニラ国際空港に到着します。空港周辺には3万人を越える民衆が集まっていたそうです。機内にはアキノ氏帰国を取材するために多くの取材陣が乗っていて、2台のカメラが撮影をしていたそうです。到着後、ニノイは乗り込んできた3人の兵士とともに降り立ち、タラップに降り立った直後に頭を撃たれて即死します。兵士に撮影を止められたため、カメラでとらえることはできなかったようです。
事件後、811便の乗客は、「アキノ氏を撃ったのは兵士だ」と証言しているそうですが、フィリピン政府は、「アキノ氏は、タラップを降りて数メートル進んだところで、空港警備員を装った男によって、357マグナム拳銃で背後から射殺された。犯人は、左翼ゲリラ組織「新人民軍」のロラルド・ガルマンの単独犯行で、治安警備の兵士により射殺された。」と発表します。
1983年8月31日、サント・ドミンゴ教会で行われた葬儀には、200万人の人々が街頭に出て、ニノイの棺を見送ったそうです。この死が、1985年のエドゥサ革命(EDSA
Revolution)ヘとつながりマルコス政権の崩壊となります。(imagesgraph from Yomiuri Shimbun)
プエルト・プリンセサ地底河川国立公園(Subterranean Underground River in Puerto Princesa)は、パラワン島のセント・ポール山地の鍾乳洞内を流れる川で、1999年にユネスコの世界遺産に登録されました。
コオオハナインコモドキ(Blue naped Parrot)は、オウム目(Psittaciformes)、インコ科(Psittacidae)、オオハナインコモドキ属(Tanygnathus)のインコで、フィリピン固有種。絶滅危惧種に指定されています。(Photograph from Wikipedia)