pichori logo

ピチョリWebサイト(Pichori website)

Contact

旅2011年 (Journey 2011)

福島県:飯森山 白虎隊士の墓り

福島県:飯森山 白虎隊士の墓

飯森山は、福島県会津若松市一箕町にある標高314mの山で、古くは弁天山と呼ばれました。戊辰戦争の際に、白虎隊が鶴ヶ城を仰ぎながら、集団自決を遂げた場所として知られています。
1868年(慶應4年)1月3日〜1869年(明治2年)5月18日、薩摩藩・長州藩・土佐藩他連合軍の西軍と幕府軍との鳥羽・伏見の戦いを皮切りに、上野戦争、北越戦争、会津戦争、函館戦争などの戦いが行われました。慶應4年の干支が戊辰であったので戊辰戦争と呼ばれます。
会津戦争は、1868年(慶應4年)8月23日〜9月22日に行われました。会津藩主、松平容保に対する追討令が出され、薩摩藩、長州藩を主力とする西軍が会津若松への攻撃を始めます。 会津藩は近隣の30余藩と奥羽越列藩同盟を結びこれに対抗し会津若松城を拠点に激戦を繰り広げますが、9月22日、会津藩は降伏します。 このとき、50歳以上で構成された玄武隊(げんぶたい)、36歳から49歳までで構成された国境守備隊の青龍隊(せいりゅうたい)、18歳から35歳までで構成された実戦部隊の朱雀隊(すざくたい)、16歳から17歳で構成された白虎隊(びゃっこたい)、14歳、15歳で構成された幼少隊(ようしょうたい)などがありました。
会津軍は劣勢が続き苦戦します。8月23日、20名の士中白虎二番隊は戸ノ口原の戦いで打撃を受け、負傷者を抱えながら戸ノ口堰から飯盛山北麓までの210メートルのトンネルを通って飯盛山へと落ち延びます。このとき、高台からみた鶴ヶ城は黒い煙につつまれ、天守閣の白壁には赤い炎が燃えさかっているようにみえたそうです。負け戦を覚悟で行動し、敵に捕まり生き恥をさらすことを望まなかった隊員らは城の見える場所で自決したそうです。
一命を取り留めた飯沼貞吉氏を除く19名が死亡したとされていて、その後、飯沼貞吉は電信技士として維新後を生き抜き、1931年に79歳で亡くなります。
会津戦争後、白虎隊士の埋葬は許可されませんでした。 飯盛山の白虎隊墓所は、1871年(明治4年)に仮埋葬の地妙国寺(みょうこくじ)から改葬されたもので、現在の墓は1926年(大正15年)ごろに建てられたものだそうです。
案内板によると「正面の墓は、明治元年(一八六八)の戊辰戦争において飯盛山で自刃した十九士の墓です。八月二十三日(新暦十月八日)自刃した隊士の遺骸は、西軍により手をつけることを禁じられていました。約三ヶ月後村人により、密かにこの近くの妙国寺に運ばれ仮埋葬され、後この自刃地に改葬されました。現在の形に十九士の墓が建てられたのは明治二十三年で、二度にわたり墓域が拡張されました。右側の墓は、会津の各地で戦い、亡くなった白虎隊士三十一名の墓です。左側の碑は白虎隊士と同じ年齢で県内各地及び新潟・栃木・京都で戦い、戦士した会津藩少年武士(白虎隊の仲間達)の慰霊碑です。」
会津若松市観光協会

<< 前のページに戻る