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フィリピンの紙幣 (Philippine note)

2004年 500 PISO表 2004年 500 PISO裏
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2004年 500 PISO

1987年〜2010年に発行。
表 「REPUBLIKA NG PILIPINAS」「ANG SALAPING ITO AY BAYARIN NG BANGKO SENTRAL NG PILIPINAS」「AT PINANANAGUTAN NG REPUBLIKA NG PILIPINAS」「LIMANDAANG PISO」portraitベニグノ・シメオン・アキノ・ジュニア(Benigno Simeon Aquino, Jr.)フィリピンの旗、「FAITH IN OUR PEOPLE AND FAITH IN GOD」、平和の鳩、「THE FILIPINO IS WORTH DYING FOR」、ニノイのタイプライター。
裏 アキノの生涯が描かれています。


ベニグノ・シメオン・アキノ・ジュニア(Benigno Simeon Aquino, Jr.) ベニグノ・アキノは、1932年11月27日タルラック州コンセプションで生まれます。愛称が「ニノイ」であったため、ニノイ・アキノという呼び名でも知られています。祖父はエミリオ・アギナルドの側近として活躍し、父ベニグノ・アキノ・シニアもホセ・ラウレル政権の政治家でした。
1954年、反政府グループ、フクバラハップのリーダー、ルイス・タルクを4ヶ月にわたり説得し、タルクは無条件投降します。これにより、ニノイの名声は高まり、22歳でコンセプション市の市長に就任します。同年、後の、11代フィリピン大統領コラソン・アキノ(Corazon Aquino)、コラソン・コファンコと結婚します。
1961年、タルラック州の知事に当選し、1966年には自由党の官房長官に就任します。1967年には35歳で上院議員に当選。これは、現代に至るまで、フィリピン史上最年少での上院議員当選の記録として、いまだ破られていないそうです。
1972年、マルコス大統領により、全土に戒厳令が敷かれます。反政府側の危険人物とされたニノイは、政府転覆の陰謀と武器の不法所持、殺人などの容疑で、逮捕、投獄され、1977年に死刑を宣告されますが、1980年、アメリカ合衆国で手術を受けさせるという名目で、ニノイはフィリピンから追放されます。
1983年8月21日、ニノイを乗せた中華航空811便がマニラ国際空港に到着します。空港周辺には3万人を越える民衆が集まっていたそうです。機内にはアキノ氏帰国を取材するために多くの取材陣が乗っていて、2台のカメラが撮影をしていたそうです。到着後、ニノイは乗り込んできた3人の兵士とともに降り立ち、タラップに降り立った直後に頭を撃たれて即死します。兵士に撮影を止められたため、カメラでとらえることはできなかったようです。
事件後、811便の乗客は、「アキノ氏を撃ったのは兵士だ」と証言しているそうですが、フィリピン政府は、「アキノ氏は、タラップを降りて数メートル進んだところで、空港警備員を装った男によって、357マグナム拳銃で背後から射殺された。犯人は、左翼ゲリラ組織「新人民軍」のロラルド・ガルマンの単独犯行で、治安警備の兵士により射殺された。」と発表します。
1983年8月31日、サント・ドミンゴ教会で行われた葬儀には、200万人の人々が街頭に出て、ニノイの棺を見送ったそうです。この死が、やがてマルコス政権の崩壊へつながってゆきます。

(imagesgraph from Yomiuri Shimbun)

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