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旅2011年 (Journey 2011)

静岡県:修善寺の修禅寺本堂

静岡県:修善寺の修禅寺本堂

修善寺(しゅぜんじ)は、静岡県伊豆市修善寺にある温泉街で、寺院の修禅寺本堂(しゅぜんじ)が、地名の修善寺(しゅぜんじ)の元になったそうです。地名の修善寺も、寺院の修禅寺も、両方とも「しゅぜんじ」と読みます。平安初期に弘法大師が桂谷山寺を開基したのが始まりとされていて、鎌倉初期に、寺名を修禅寺と言うようになり、地名も寺領だったことから修善寺と呼ぶようになります。この時代には源範頼(みなもとののりより)、頼家(みなもとのよりいえ)が幽閉され暗殺されるという源氏興亡の哀史の舞台となっています。2004年(平成16年)の4月1日には、伊豆半島中北部の4町、田方郡修善寺町、土肥町、天城湯ヶ島町、中伊豆町が合併し伊豆市が発足します。
修禅寺(しゅぜんじ)本堂は、静岡県伊豆市修善寺にある曹洞宗の寺院。山号は福地山。正式名称は『福地山修禅萬安禅寺(ふくちざんしゅぜんばんなんぜんじ)』、略して福地山修禅寺本堂と呼んでいます。夏目漱石の「修善寺の大患」、岡本綺堂の「修善寺物語」で知られています。807年(大同2年)に弘法大師が創建したと伝えられ、その後の約470年間は真言宗に属していました。当時は周辺の地名から、桂谷山寺と言われていました。 その後、鎌倉時代初期に修禅寺の名称が定着し、寺領も修善寺と呼ばれるようになります。また、源頼朝の弟の源範頼と、その息子で鎌倉幕府2代将軍の源頼家が当寺に幽閉され、後に殺害されたことでも知られています。現在の本堂は1883年(明治16年)に再建したものだそうです。
指月殿境内にある立て看板より
『正治(しょうじ)元年(1199年)に父頼朝(よりとも)の死により家督を継いで、鎌倉二代将軍となった頼家は、父の没後専横(せんおう)になった北条氏(ほうじょうし)を押さえて幕府の基礎を固めるのに懸命であったがおおくく揺れ動く時流とと、醜い駆け引きに終始する政争に破れ、在位わずか6年でこの修善寺に流され、元久元年(1204年)祖父北条時政(ほうじょうときまさ)の手で入浴中に暗殺された(享年23歳)。「修善寺物語(しゅぜんじものがたり)」はこうした政治的背景の上に配所(はいしょ)の若き将軍頼と、面作り師夜叉王(やしゃおう)を中心に、それにまつわるロマンスを綴ったものである。この碑は、元禄16年(1704年)頼家の500周忌にあたって、時の修禅寺本堂住職筏山智船(ばっさんちせん)和尚が建てた供養塔であり、墓はその裏側にある2基の小さな五輪石塔である。』 修禅寺本堂

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