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旅2011年 (Journey 2011)

福島県:会津 鶴ヶ城

福島県:会津 鶴ヶ城

会津(あいづ)は、福島県を南北に連なる奥羽山脈と阿武隈高地の2つの尾根線を概ねの境界とした「会津」「中通り」「浜通り」の3つの地域の1つです。現在の福島県西部にある会津盆地を中心として、東は奥羽山脈、北は飯豊山地、西は越後山脈、南は下野山地に囲まれています。会津地方の中心都市は会津若松市。
鶴ヶ城(つるがじょう)は、福島県会津若松市追手町にあった城で、会津若松城、黒川城、会津城と呼ばれることもあります。国の史跡としては、若松城跡(わかまつじょうあと)の名称で指定されています。鶴ヶ城は、南北朝時代の1384年(至徳元年)に芦名直盛(あしななおもり)が創築したという説があります。
  • 1589年(天正17年)、摺上原(すりあげはら)の合戦に勝利し、芦名氏を滅ぼした伊達政宗が居城としました。翌年、豊臣秀吉による天下統一後の奥州仕置により、伊達氏は会津を去り、蒲生氏郷が、会津42万石に入国します。
  • 1592年(文禄元年)、氏郷は七重の天守閣を築き、城を改修し、城の名を「鶴ケ城」と改め、また、町割りを整備して、黒川から若松と改称します。
  • 1598年(慶長3年)、氏郷の没後、越後春日山城より上杉景勝が120万石で入国します。
  • 1601年(慶長6年)、関が原の役の功により、蒲生秀行(がもうひでゆき)が60万石で入国します。その後、蒲生氏は、秀行(ひでゆき)30歳、忠郷(たださと)25歳と若死にし、忠郷の弟、忠知も30歳で若死にし、蒲生氏は断絶します。
  • 1627年(寛永4年)、伊予松山藩の加藤嘉明(かとうよしあき)が、会津藩40万石で入国します。1631年(寛永8年)、嘉明の死去後、後を継いだ明成は、1639年(寛永16年)に城の大改修に着手し、天守閣を五層に改築するなどして、今日の城に整えます。
  • 1643年(寛永20年)に、江戸幕府2代将軍徳川秀忠の子、保科正之(ほしな まさゆき)が羽前山形(山形県山形市)より23万石で入国し、初代会津松平家(あいづまつだいらけ)となります。
  • 1868年(慶応4年)の鳥羽伏見の戦いで火蓋が切られた戊辰戦争で朝敵の筆頭に挙げられ、新政府軍の標的とされ、同年9月22日に降伏し、翌日、開城となります。その後、会津松平家は、1869年(明治2年)に青森県東北部の斗南藩(となみはん)3万石が与えられましたが、1871年(明治4年)に廃藩となります。
  • 1874年(明治7年)、鶴ケ城の残っていた建物は競売にかけられ、廃城となります。
会津若松市観光公社

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