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旅2010年 (Journey 2010)

愛知県:岡崎城の徳川家康像

愛知県:岡崎城の徳川家康像

岡崎城は、愛知県岡崎市康生町にあった城。徳川家康の生地で別名、龍城。 岡崎城は、15世紀中頃、室町時代に、明大寺の地に西郷頼嗣(よりつぐ)によって築城されたのがそのはじまりと言われています。その後、1531年(享禄4年)に家康の祖父、桧平清廉(きよやす)が現在の位置に移して以来、ここが岡崎城と言われるようになります。1542年(天文11年)12月26日、徳川家康は、岡崎城内で誕生します。家康は、6歳で信長の父、織田倍秀(のぶひで)、8歳で今川義元(よしもと)の人質となり、少年期を他国で過ごしましたが、1560年(永禄3年)の桶狭間の合戦で、今川義元が戟死したことを契機に19歳で自立します。1570年(元亀元年)、家康は本拠を遠江浜松、現在の静岡県浜松市に移し、嫡男信康(のぶやす)を岡崎城主とします。1590年(天正18年)に家康が秀吉によって関東に移されると、秀吉の家臣田中吉政(よしまさ)が城主となりますが、家康が江戸に幕府を開いてからは、譜代大名にここを守らせます。江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏(康重系統)、水密氏、桧平(松井)氏、本多氏(忠勝系統)と、家格の高い譜代大名が城主となり、石高こそ5万石でしたが大名は岡崎城主になることを誇りにしたと伝えられています。
西郷氏が築いた当初の岡崎城は、砦の形態で、城域も現在の本丸程度であったと考えられていますが、田中吉政は、大規模な城郭の整備拡張を行い、1592年(文禄元年)には、城の東・北・西に総延長4.7キロに及ぶ稔堀を巡らしたそうです。また、1617年(元和3年)本多康紀のときには、三層三階地下一階で、東に井戸櫓、南に付櫓をもつ複合天守閣が再建されたそうです。
徳川家康は、1542年(天文11)12月26日岡崎城内二の丸で生まれました。幼少の頃人質として苦難の道をあるき、自立した後は全国統一をめざし、転戦を続け、1600年(慶長5年)年の関ヶ原の合戦に大勝して、天下を納めるに至ります。以後、徳川幕政300年の基盤を作り、1616年(元和2年)4月17日に75才でこの世を去ります。
銅像は1965年(昭和40年)家康公350年祭を記念して建てたものだそうです。
『人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず、不自由を常と思えば不足なしこころに望みおこらば困窮したる時を思いだすべし、堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもえ勝事ばかり知りてまくる事をしらざれば害其身にいたる、おのれを責て人をせむるな、及ばざるは過ぎたるよりまされり。慶長8年正月15日 人はただ身のほどを知れ草の葉の露も重きは落つるものかな。』

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