旅2008年 (Journey 2008) 千葉県:城山公園の館山城天守 城山公園は千葉県館山市館山の里見氏の居城跡にある公園。 里見氏は清和源氏新田氏の末流と言われ、新田義重(よししげ)の子、里見義俊(よしとし)が、上野国(群馬県)碓氷郡(うすいごおり)里見郡で里見氏を称したのが始まりとされています。1440年、結城合戦で敗れた、里見義実(よしざね)は逃れて三浦氏の援助を受け、房州白浜(安房郡白浜町)の野島崎に上陸し、1445年(文安2年)に安房国を平定したと言われています。 この義実(よしざね)が安房里見氏の祖とされています。以後里見氏は、6代義堯(よしたか)の頃には、上総・下総方面に進出して57万石を領していましたが、敵に対処する為の堅城が必要となり、8代義頼(よしより)が1580年(天正8年)に館山上を築城し、その後、9代義康(よしやす)が、1590年(天正18年)に館山城を改築したと言われています。現在の天守は1982年(昭和57年)に新たにこの場所に建てられたものです。 9代義康(よしやす)は小田原征伐に従軍し、遅参を理由に上総国は秀吉に没収され、安房一国9万2000石の所領となります。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与して武功を挙げたため、戦後に常陸国鹿島郡に3万石を与えられ、12万2000石の大名となります。1603年(慶長8年)、義康(よしやす)が31歳で死去し、子の忠義(ただよし)が家督を相続します。 しかし忠義(ただよし)は1611年(慶長16年)に大久保忠隣の孫娘を妻としていたため、1614年(慶長19年)の大久保長安事件に連座して改易され、伯耆国倉吉藩に流され4千石とされます。1617年(元和3年)、鳥取藩主池田光政により4千石はとりあげられ、1622年(元和8年)に病死し常光寺の川原で火葬され大岳院に葬られたそうです。嗣子が無いとされて大名家としての里見氏は滅亡します。 忠義(ただよし)が死去した時、8人の側近が殉死し忠義(ただよし)とともに大岳院に葬られ「八賢士」と讃えられたと言われていて、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」のモデルとも言われています。