歴代アメリカ合衆国大統領(PRESIDENTS OF THE UNITED STATES)

32代 フランクリン・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt)

32代 フランクリン・D・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt)
1882年1月30日、ニューヨーク州ハイドパーク生まれ
「恐れなければいけない唯一のものは、恐れそれ自体である。」


フランクリン・D・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt)は1882年1月30日にニューヨーク州北部のハイドパークで生まれました。父親のジェームズ・ルーズベルトは、アメリカ合衆国北東部のデラウェア・アンド・ハドソン鉄道の副社長で、裕福な地主でした。 1904年にハーバード大学、1908年コロンビア大学ロースクールを卒業し、1910年に民主党ニューヨーク州議会上院議員に選ばれ、1913年に海軍次官、1929年ニューヨーク州知事となり、1933年に民主党出身の第32代アメリカ大統領となります。
世界恐慌
1920年代のアメリカは、第一次世界大戦の輸出によって発展した重工業、自動車工業の躍進、ヨーロッパへの輸出の増加などによって「永遠の繁栄」と呼ばれる好景気が続いていました。 しかし農業の機械化による過剰生産、ヨーロッパの復興、異常気象などから農業恐慌となり、農業不況に加えて、鉄道や石炭産業も不振になっていたにもかかわらず好景気にあおられ、アメリカの株式市場は1924年中頃から投機を中心とした資金の流入によって上昇を続けます。 そのような状況の中、1929年10月24日10時25分、ゼネラルモーターズの株価が80セント下落したのを発端に、売りが膨らみ株式市場は11時頃までに売り一色となり、株価は大暴落します。 その後も暴落が続き、投資家は株の損失を埋めるためあらゆる分野から資金を引き上げたため、失業者数1,280万人という大きな恐慌となりました。
ニューディール(New Deal)政策
1933年、フランクリン・D・ルーズベルトは世界恐慌に対し、「ニューディール政策」と呼ばれる、政府による経済への介入を行ないました。 緊急銀行救済法、テネシー川流域開発公社などの公共事業、民間資源保存局による大規模雇用、全国産業復興法による労働時間の短縮や超越論的賃金の確保、農業調整法による生産量の調整などの政策を行いました、財源は富裕層への増税と国債発行によって行われ、富裕層の反発を招き、失業者の数も思ったより減少しませんでした。
太平洋戦争
日本時間1941年12月8日未明(ハワイ時間12月7日)ハワイ、オアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して、日本海軍が航空攻撃を行い、それを契機に、フランクリン・D・ルーズベルトは議会で「日本帝国の無警告攻撃で戦争状態に入った」と演説し、参戦に反対だった世論は一挙に参戦に傾き、アメリカは連合国の中核として参戦します。アメリカ経済は軍需の増大によって回復し、失業者数は1944年には67万人に減少します。 戦況も連合国有利に傾き、1943年9月8日にイタリアが降伏し、1944年6月6日には連合軍がノルマンディーへ上陸し、8月29日にはパリへ入城し連合国の勝利は確実になります。 1944年11月7日に、フランクリン・D・ルーズベルトは4選を果たしましたが、肖像画の制作途中、1945年4月12日の昼食前に脳卒中で死亡したそうです。
5月にはドイツが降伏、8月には日本が降伏して第二次世界大戦が終結します。

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