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序論(Introduction)

領土の拡大は、クリストファー・コロンブスの上陸から始まりました。コロンブスは中米の先住民族を艦隊を率いて数年にわたり虐殺し、その人口を激減させました。イギリスからアメリカに渡った移住者や、ヨーロッパ諸国からやって来た移民にとって、最大の関心事は土地の獲得でした。移民は、アメリカ先住民族から土地を奪い、西へと開拓を進めます。 1803年、ナポレオン・ボナパルトからミシシッピー川以西のフランス領ルイジアナを買収することにより、広大な西部の土地を得るだけでなく、西部に住む農民たちが国境ではなくなったミシシッピ川を物流路として自由に使えるようになります。
アメリカ合衆国は1776年に独立し、18世紀前半までは、地続きの領土拡張を行っていました。1846年からの米墨戦争などで現在の合衆国本土域が確定した後に、中央アメリカへの干渉を本格化し、 1898年の米西戦争とパリ条約により、スペイン帝国は西インド諸島と太平洋におけるほとんどの植民地をアメリカへ割譲し、アメリカ合衆国による植民地獲得競争への参加が本格化します。

内容(Contents)

  • インディアン戦争
    • 白人と先住民族との戦争は、クリストファー・コロンブスの上陸から始まりました。コロンブスは中米の先住民族を艦隊を率いて数年にわたり虐殺し、その人口を激減させました。
      イギリスからアメリカに渡った移住者や、ヨーロッパ諸国からやって来た移民にとって、最大の関心事は土地の獲得でした。移民は、アメリカ先住民族から土地を奪い、西へと開拓を進めます。
      イギリスがアメリカへの入植を始めた1610年代や1620年代は平穏に過ぎましたが、ピクォート戦争の起こった1637年頃から、入植地の安全を図るためと、さらなる入植地の拡大のために、植民白人は先住民族の部族間の争いを利用し、代理戦争を行わせるようになります。
      1830年、アメリカ合衆国第7代大統領アンドリュー・ジャクソンはアメリカ先住民族を東部諸州から一掃すると称して強制移住法を作り、全アメリカ先住民族を、ミシシッピー川より西側に立ち退かせることにより、 彼等の全ての土地を手に入れます。その後、ミシシッピー川の西側に石油資源があることを知ると、1834年にさらに西に移動させ、1858年にはミネソタが州に昇格するのに伴い更に100マイル西方に境界が移動されました。そこはインディアン居留地(Reservation)と呼ばれ、居留地に住むことを条件に食糧を支給し、生活保護を与えて現在に至っています。アメリカ・インディアン arrow
  • 米墨戦争
    • 米墨戦争は1846年〜1848年の間にアメリカ合衆国とメキシコの間で行われた戦争です。
      1803年のルイジアナ買収によって西部への開拓を開始しやすくなった多くのアメリカ人が、メキシコ領北部に流入していました。1834年までに、テキサスにはスティーブン・オースティン(Stephen Fuller Austin)の仲介によって約750世帯の米国人入植者があったそうです。
      1835年、テキサスに移住した入植者らが起こしたテキサス独立戦争の末、1836年にテキサス共和国(Republic of Texas)が成立し、1837年にアメリカ合衆国、1839年にフランス、1840年にオランダとイギリス、1841年にベルギーがテキサス共和国を承認します。
      • アラモ砦の戦い(Battle of the Alamo)
        アラモ砦の戦いは、テキサス独立戦争中の1836年2月23日〜3月6日の13日間にメキシコ共和国軍とテキサス分離独立派の間で行われた戦闘です。
        アラモ砦(Fort Alamo)は、地元のインディアンをキリスト教へ改宗させる布教所として1718年にサン・アントニオ・デ・ベハル(現在のテキサス州サンアントニオ(San Antonio))にスペインにより建設されました。19世紀初頭にスペイン軍の騎兵隊が駐屯し、その要塞を「アラモ」と呼びました。メキシコからの独立を画策していたアングロサクソン系テキサス住民は、サンアントニオ市を占領します。
        1836年始めに、メキシコの大統領兼将軍であるサンタ・アナ(Antonio Lopez de Santa Anna)は反乱軍の鎮圧を決定しました。 サン・ルイス・ポトシで、およそ6,100人の兵士と20門の大砲を集め、アラモ砦のあるテハスに向け進軍し、サンアントニオ市を包囲しました。 アラモ砦にはテキサス人220人程度の志願兵及び非戦闘員しか集められませんでした。勇名を馳せた人物としてウイリアム・トラビス中佐、デイビー・クロケット、ジェームズ・ボウイ大佐などが知られています。ボウイ大佐は、大型ナイフのボウイナイフで知られています。 戦いは、サンタ・アナの軍勢1600名で攻撃され、187人が戦死、残り約30人程は非戦闘員だった為放免されたと伝えられています。この戦いで「リメンバー・アラモ(Rimember the Alamo)」は以後テキサス軍の合言葉となります。
      メキシコ国内の世論は、テキサス奪還が強かったのですが、国内情勢が不安定なメキシコにとってはそのための態勢を取るには至りませんでした。
      1845年には、テキサス住民の総意で、28番目の州として米国に併合され、翌年からの米墨戦争のきっかけとなります。
      1846年3月27日、アメリカ大統領ジェームズ・ポーク(James Knox Polk)は、アメリカの主張するテキサス州の土地を確保するよう軍に命じます。これを受けたザカリー・テイラー(Zachary Taylor)将軍の率いる軍隊は、ヌエセス川(Nueses River)を南に超えて、メキシコの非難にも関わらずテキサス砦(Fort Texas)を築きます。
      1846年4月24日にメキシコの騎兵隊がアメリカの分遣隊を捕らえたことから戦闘状態となり、アメリカ連邦議会は5月13日に宣戦を布告します。メキシコは5月23日に宣戦を布告します。 アメリカの宣戦布告後、アメリカ軍はロサンゼルスを含むカリフォルニアのいくつかの都市を占領し、1847年1月13日に調印されたカフエンガ条約で、カリフォルニアでの戦いを終了します。 1848年2月2日に調印されたグアダルーペ・イダルゴ条約は戦争を終結させて、アメリカにカリフォルニア、ネバダ、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコ、ワイオミング、コロラドの大半にテキサスと同様の管理権を与えました。アメリカはこれに対し現金15,000,000ドルと債務放棄3,250,000ドルを支払いました。
      このメキシコ割譲により、メキシコは国土の1/3を失い、 これによりアメリカは、1マイル四方に白人人口が2人以下という開拓前線、いわゆるフロンティアが誕生し、一年後の1849年、カリフォルニア州サクラメントでゴールドラッシュが起こり、20世紀前半には、テキサス州で油田が発見されることになります。
  • オレゴン併合
    • オレゴン・カントリー(Oregon Country)は、現在のカナダのブリティッシュコロンビア州の一部、合衆国のオレゴン州、ワシントン州、アイダホ州の全域と、モンタナ州、ワイオミング州の一部から成っていました。
      オレゴン・カントリーは、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ロシア、スペインが領有を主張していました。合衆国は、1792年のロバート・グレイのコロンビア川の発見とルイス=クラークの探険に基づいて主張していました。イギリスは自国のコロンビア川の探険に基づき主張していました。スペインは、彼らが18世紀後半に太平洋岸を探険していた事実に基づいて主張していました。ロシアは、アラスカからオレゴンにまで広がっていた入植地に基づいて主張していました。七年戦争の敗北で、フランスは放棄します。スペインは、1790年のヌートカ会議と、1819年のアダムズ=オニス条約に基づき放棄します。ロシアは1824年の合衆国との条約と1825年のイギリスとのそれぞれの条約に基づき放棄します。
      その間に、合衆国とイギリスは1818年のアングロ=アメリカン会議で、北緯49度に沿って西のロッキー山脈までの領地の両国の境界を延長する協議した。両国は、ロッキー山脈の西から太平洋までの土地を、「共同の占有」をすることで合意した。
      1846年、合衆国とイギリスはオレゴン条約で平和的な合意に達し、バンクーバー島全域はイギリスの支配下のまま、北緯49度線に沿ってジョージア海峡までのラインで領土を分けた。この境界は現在も、ブリティッシュコロンビア州と、近接するワシントン、アイダホ、モンタナの各州を隔てています。これによりアメリカ領土は太平洋に到達します。
      1848年、オレゴン・カントリーの合衆国部分は、オレゴン準州として正式に編入され、1849年、バンクーバー島はイギリス領植民地となり、1858年には本土部分がブリティッシュコロンビア植民地として組織化されます。
  • 米西戦争
    • USS Maine BB-10米西戦争(American Spanish War)は、1898年にアメリカ合衆国とスペインの間で行われた戦争です。
      1898年2月15日にキューバ、ハバナ湾で米海軍の戦艦メイン(USS Maine)が爆発、沈没し260名の乗員を失う事故が発生、当時の米国のメディアは、この事件を「スペイン側の陰謀」「リメンバー・メイン」などの好戦的で感情的な報道をしました。これは、一層米国民を刺激することとなりました。 1898年4月11日、第25代アメリカ合衆国大統領ウィリアム・マッキンリー(William McKinley)は内戦の終了を目的としてキューバへ米軍を派遣する権限を求める議案を議会に提出し、1898年4月19日に議会にて承認されます。 1898年4月25日に連邦議会はアメリカとスペインの間の戦争状態が4月20日以来存在することを宣言します。戦争開始と同時に、前年の1897年より香港に停泊して出撃準備を整えていた米国アジア艦隊は、1898年5月1日フィリピンへと向かい、マニラのスペイン艦隊を全滅させ、1898年7月25日にはプエルトリコを占領します。米西戦争 arrow

      (Photograph from U.S. Naval Historical Center)

  • ハワイ革命
    • ハワイ王国(Kingdom of Hawaii)は1795年から1893年までハワイ諸島に存在した王国です。1893年の革命で共和制となり、1898年にはアメリカ合衆国に併合されて消滅します。
      アメリカ合衆国からの入植者が増え、サトウキビ栽培や輸出などによって経済的に力をつけはじめると、より親米的な政治を求める声が経済界から強くなりました。1887年にはクーデターが起こり、ハワイ王国の第7代国王、デイビィッド・カラカウア(David Kalakaua)は修正憲法の成立を承認せざるを得なくなります、この修正憲法によって国王の権限は制限され、ハワイ王国は対米従属を余儀なくされます。
      1891年に即位したリリウオカラニ(Liliuokalani)女王は、王権を取り戻す新憲法を起案するなどした共和派と対立します。サンフォード・バラード・ドール(Sanford Ballard Dole)ら共和派はハワイ人たちの王政派勢力急伸に危機感を募らせた。1893年1月16日、両派の衝突で混乱する中、米国公使ジョン・L・スティーヴンス(John L Stevens)はアメリカ海兵隊に出動を要請しイオラニ宮殿を包囲させます。
      1893年1月16日、リリウオカラニは幽閉状態となり、1月17日、ドールはハワイ臨時政府を打ち立て、王政の廃止を宣言します。 翌1894年7月4日、ドールはハワイ共和国の成立を宣言し、同国の最初で最後の大統領となります。 1895年1月に王党派による武力蜂起が起きましたが鎮圧され、1月16日にはリリウオカラニも私邸から大量の武器が発見されたという理由で逮捕され、廃位されます。ドールはハワイをアメリカ合衆国に併合する条約を作り、この条約が成立したときハワイ準州の初代知事に任命されます。 1898年8月12日、アメリカ合衆国大統領ウィリアム・マッキンリーはハワイのアメリカ合衆国領への編入を宣言し、1959年8月21日には完全なアメリカ合衆国領としてハワイ州が成立し、アメリカ合衆国50番目の州として認知されます。
  • 米比戦争
    • パシグの戦い(War of Pashigu)米比戦争(Philippine-American War)は、1899年〜1913年の間にアメリカ合衆国とフィリピンの間で行われた戦争です。
      1896年以来スペインからの独立のために戦ってきたエミリオ・アギナルドにフィリピンの独立を援助する名目で協力させ、米西戦争でスペインを破ったにも関わらず、パリ条約において2,000万ドルでフィリピンを購入し、植民地化を開始します。
      1899年2月4日、アメリカ支配側に立ち入ったとされるフィリピン兵が射殺され、当時の第25代アメリカ合衆国大統領、ウィリアム・マッキンリー(William McKinley)は、この事件はフィリピン側によるマニラ市内への攻撃であったと新聞に語り、責任をフィリピン側に求め、米比戦争へと発展します。8月14日には、11,000人の地上部隊がフィリピンを占領するために送られてきました。戦争はフィリピン国家主義者の独立に対する望みを絶つために行われ、反抗するフィリピン人60万人を虐殺します。米比戦争 arrow

      (Photograph from Wikipedia)

  • パナマ侵略
    • 1902年に、アメリカ軍は、内戦中のコロンビアの反政府武装民兵を制圧するために、コロンビア領のパナマに侵攻しました。
      1831年に大コロンビア解体後に、ヌエバ・グラナダ共和国は建国され、パナマはその時にヌエバ・グラナダ共和国(現在のコロンビア共和国)の一州として独立しました。 1846年にアメリカ合衆国は、パナマにおけるヌエバ・グラナダ共和国の主権を承認することでパナマ地峡の通行権を獲得します。 ゴールドラッシュが始まった1840年代以降、アメリカ合衆国東部の人々はオレゴン、カリフォルニア等のアメリカ合衆国西岸への移住にパナマ地峡を利用し、交通の要衝としてのパナマの重要性は高ます。1848年にはアメリカ合衆国の会社が、パナマ・コロン地峡横断鉄道の敷設権を獲得します。1850年に着工したパナマ・コロン鉄道敷設工事は、1855年に完了します。
      • パナマ運河の歴史
        パナマ運河1534年、スペインのカルロス1世が調査を指示したのが始まりで、スエズ運河の建設者レセップスがパナマ地峡に海面式運河の建設を計画し、フランスの主導で1880年1月1日に建設を開始しましたが、黄熱病の蔓延や工事の技術的問題と資金調達の両面で難航し、1889年に計画を放棄します。 アメリカ合衆国は1902年に連邦議会でパナマ地峡に運河を建設することを決定します。当初パナマ地峡は自治権をもつコロンビア領でしたが、アメリカ合衆国は、運河を自らの管轄下におくことを強く志向しました。1903年11月3日、この地域はコロンビアから独立を宣言しパナマ共和国となりました。アメリカ合衆国は10日後の11月13日にこれを承認し、5日後の11月18日にはパナマ運河条約を結び、運河の建設権と関連地区の永久租借権などを取得し工事に着手します。1903年から工事を始め、3億ドル以上の資金が投入され、1914年8月15日に開通しました。 運河収入はパナマに帰属しましたが、運河地帯の施政権と運河の管理権はアメリカに帰属しました。

        note.パナマ運河条約は、大コロンビア領パナマが独立した1903年に、アメリカとパナマとの間で結ばれた閉鎖条約のことで、パナマ運河と運河の中心から両側16kmずつの永久租借権と運河の建設、管理運営権、軍事警察権をアメリカに与える条約。

      1907年の開削工事運河地帯両岸の永久租借地にはアメリカの軍事施設がおかれ、南米におけるアメリカの軍事拠点となっていましたが、1960年代にパナマの民族主義が高まり、運河返還を求める声が強くなる中で、これを契機にアメリカ合衆国と返還をめぐる協議が始まり、1977年、ジミー・カーター大統領の時代に新パナマ運河条約が締結されます。

      note.新パナマ運河条約は、1977年に締結され、「パナマ運河条約及びパナマ運河の永久中立と運営に関する条約」による1999年12月31日の返還まで、パナマ運河の管理運営権はパナマに委譲され、全ての国の平和的航行に対して平等に開放するとし、有事の際アメリカが軍事介入する権利を留保する条約。

      1989年12月20日、ブッシュ政権は、パナマのノリエガ将軍を、麻薬密輸の容疑で逮捕するという名目で、パナマ市内6ヶ所に対し武装ヘリ部隊で爆撃を開始します。  アメリカの兵力は、パナマに駐留していた南方軍、本土降下部隊など合わせて24,500名で、20日未明にパナマ国内27カ所を同時に攻撃し、3日間の戦闘でパナマ側は民間人を含めて400人〜2000人の死者が出たそうです。  攻撃目標は、パナマ国防軍本部でしたが、隣接するエルチョリージョ地区も爆撃され、民間人に多大な被害をもたらしました。米軍の死者は23人だそうです。  ノリエガ将軍は、1992年「麻薬密売」の罪により40年の拘禁判決を受け、現在もアメリカ合衆国フロリダで服役中です。侵攻と同時に野党のエンダラが、米軍基地において大統領就任を宣言します。なお、パナマは1994年に軍隊を廃止し、警察だけになっています。また、米軍はパナマのラジオ局、テレビ局を占拠し、パナマのジャーナリストを逮捕したため侵攻時の映像が残っていない。 ノリエガ元将軍の回顧録によると、「米軍のパナマ進攻は日本の影響力拡大が引き金」とノリエガ元将軍は、語っている。「米国人の凶暴さに対抗して資金力のある日本をパナマ運河に引き込むことで、アメリカをけん制」しようとした。そのため、パナマ運河の将来の管理が日本の支援でパナマの手に落ちるのを阻止することが狙いで、米軍は侵攻したという。 日本主導の第二パナマ運河計画に期待したノリエガ政権は、パナマ市内のオマール公園に大平正芳元首相の胸像を作った。また、パナマ市内の繁華街には「大平通り」もある。
      当運河および当運河地帯の施政権は1999年12月31日にパナマへ正式に返還され、アメリカ軍は完全に撤退します。
  • キューバ侵攻
    • 1906年に、アメリカ軍は、キューバの反政府武装民兵の制圧を目的としてキューバに侵攻し、1909年に撤退するまでキューバを占領統治します。
      1898年に起きた米西戦争でスペインに勝利したアメリカ合衆国は、同年のパリ条約でキューバ独立をスペインに認めさせました。しかし、キューバの独立は形式的なもので、事実上、米国の支配下にありました。1901年、キューバ国憲法に盛り込まれたプラット修正条項(Platt Amendment)には、米国の内政干渉権、グァンタナモ(Guantanamo)、バイア・オンダ(Bahia Honda)の2ヶ所に米国の軍事基地を置くなどが盛り込まれていました。
      1901年末、トマス・エストラーダ・パルマ(Tomas Estrada Palma)が初代大統領に選出され、1902年5月に キューバ共和国が正式に発足します。 独立後、キューバにはアメリカ資本が数多く進出し、精糖産業など多くの資源産業をアメリカ企業が支配しました。また、政治家の不正が度重なって生じたことで、キューバの現状に対する国民の不満はより深化していきました。このような国民の不満は、1906年に反乱行為として結実し、キューバはアメリカ軍の占領下に入らざるを得ない状況となります。
      1912年には白人支配に反発する黒人の反乱が発生し、ゴメス政権はアメリカ軍と共にこれを鎮圧、1920年選挙をめぐり混乱が深まり合衆国軍の介入を受けます。
      キューバではクーデターの発生や相次ぐ政変により、1930年代まで政治的な不安定期が続きました。社会主義革命勢力が台頭したことに合衆国は警戒を強め、反革命勢力と結んでプラット修正条項の廃棄を認めるなど、キューバの秩序維持に努めざるを得なくなります。
      1934年にフランクリン・ルーズベルトのもとでプラット条項は廃止され、1940年に新憲法が施行されます。第2次世界大戦後の1952年に軍事クーデターによって政権を獲得したバチスタも、親米政策をとりアメリカからの援助をうけつつ独裁体制の強化を図りましたが、学生組織や左翼組織による反バチスタ運動が高揚し、1959年キューバ革命でカストロ独裁政権が成立します。2012年現在、グアンタナモ基地はアメリカ領。
  • ニカラグア侵攻
    • 1912年に、アメリカ軍は、アメリカに協力的な政権を樹立するために、ニカラグアに侵攻し占領しました。1933年までの占領統治期間に、アメリカ政府は、ニカラグアの政治・経済制度をアメリカに協力的な制度に変革し、反政府武装民兵を武力で制圧します。1933年、ニカラグア独立運動のアメリカ軍撤退の要求により、アメリカ軍は撤退します。
  • ハイチ侵攻
    • 1915年に、アメリカ軍は、アメリカに協力的な政権を樹立するために、1915年7月にハイチに侵攻し占領しました。1935年8月までの占領統治期間に、アメリカ政府は、ハイチの政治・経済制度をアメリカに協力的な制度に変革し、1935年8月、ハイチ独立運動のアメリカ軍撤退の要求により、アメリカ軍は撤退します。
  • ドミニカ共和国侵攻
    • 1916年に、アメリカ軍は、アメリカに協力的な政権を樹立するために、1916年5月にドミニカ共和国に侵攻し占領しました。1924年までの占領統治期間に、アメリカ政府は、ドミニカ共和国の政治・経済制度をアメリカに協力的な制度に変革し、1924年、ドミニカ共和国は選挙で選出された政権を樹立し、アメリカ軍は撤退します。

以下は過去または現在においてアメリカ合衆国領、及び保護国であった地域。

  • 1867年、アラスカをロシアから720万ドルで購入、1959年州に昇格。
  • 1898年、グアムをパリ条約によりスペインから割譲、1950年アメリカ自治的未編入地域(自治領)。
  • 1898年、フィリピンをパリ条約によりスペインから割譲、植民地化。1946年に独立。
  • 1898年、プエルトリコをパリ条約によりスペインから割譲、1952年自治領。
  • 1902年、キューバをプラット修正条項によりグアンタナモとバイアオンダを租借。1934年プラット修正条項廃止。
  • 1893年、ハワイでアメリカ人農場主らがクーデター、1894年ハワイ共和国成立、1959年アメリカ合衆国第51州に昇格。
  • 1899年、アメリカ領サモアはベルリン条約によりドイツより西サモアを割譲、1967年新憲法下で事実上の自治領。
  • 1903年、パナマ運河地帯はパナマ運河条約により租借、1999年パナマ共和国に返還。
  • 1915年、ハイチをアメリカ軍が占領、1934年撤退。
  • 1916年、ドミニカ共和国をアメリカ軍が占領、1922年撤退。
  • 1917年、アメリカ領バージン諸島をデンマークから2500万ドルで購入、1932年自治領。
  • 1945年、太平洋の国連信託統治領、現在のマーシャル諸島・ミクロネシア連邦・パラオの独立国、およびアメリカ自治領の北マリアナ諸島。
    上記の他、西アフリカのリベリアは、アメリカ合衆国で解放された黒人奴隷によって建国され、1847年に独立。
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