序論(Introduction)

大航海時代

バルトロメウ・ディアス(Bartholomeu Dias)1488年、ポルトガルの航海者バルトロメウ・ディアス(Bartholomeu Dias)が、ヨーロッパ人として初めてアフリカ南端モッセル湾を発見し、「嵐の岬(Cabo Tormentoso)」と命名し、後にポルトガル王ジョアン2世により「希望の岬(Cabo da Boa Esperanca)」と名付けられます。現在では「喜望峰」が一般呼称として定着しています。

1492年、イタリアの航海者クリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)は、当時ポルトガルが東回り航路で、東アジア全体を指す「インド」を目指していたのに対し、西回りで「インド」に到達する事を計画します。スぺインのイサベラ女王の援助を得て出発し、10月12日バハマ諸島グァナハニ島、現在のサン・サルバドル(San Salvador)島に到達し、西欧人による新大陸発見を成し遂げます。4次に渡る航海でカリブ海一帯を探検、中米および南米大陸をのぞむところまで到達します。
コロンブスは、この島をスペイン語で「サン・サルバドル(San Salvador)」「聖なる救世主」と名づけ、「インド」に到達したと誤解し、先住民のアラワク人をインディオ(indio)「インド人」と呼んだそうです。 インディオは、英語のインディアン(Indian)に引継がれます。
バスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)1498年、ポルトガルの航海者バスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)が、ポルトガルのリスボン(Lisbon)からアフリカ南端の喜望峰を経てインド南西のカリカット(Calicut)に到達します。インド航路を初めて発見したヨーロッパ人であるとされています。このインド航路の開拓によって、ポルトガル海上帝国の基礎が築かれます。

1500年、ポルトガルのベルモンテの貴族でキリスト騎士団の一員ペドロ・アルヴァレス・カブラル(Pedro Alvares Cabral)は、バスコ・ダ・ガマに続き第2回目のインド航海の司令官となり、3月8日にポルトガルのリスボンを出帆しました。彼はガマが作成した「東方航路図」に従って航海をしましたが西へと航路を外れ4月22日に南緯17度の海上で陸地を発見します。カブラルはここをポルトガル領であると宣言し「イリャ・デ・ヴェラクルス(Ilha de Vera Cruz)」と命名します。後の「サンタ・クルスの地(Terra da Santa Cruz)」。同行していた貿易商人たちは赤色染料の原料となる「ブラジル・ウッド(Brazilwood)」が茂っているのを見て、「ブラジルの地」と呼び、「ブラジル(Brazil)」の語源となります。

1513年、スペインの探検家バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア(Vasco Nunez de Balboa)は、先住民の案内でパナマ地峡を横断し、9月25日に海に到達し、「南の海」と命名します。これが後の太平洋です。また彼の探検によってアメリカ大陸が2つの大海に接する大陸であることが明らかとなります。

フェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan)1519年、ポルトガルの航海者フェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan)は、南アメリカ大陸の南端を発見して、初めてヨーロッパから西回りで太平洋に到達し、途中フィリピンでラプ・ラプ王との戦いにより4月27日に戦死しますが、残された艦隊が史上初めての世界一周を達成します。本名はポルトガル語の「フェルナン・デ・マガリャンイス(Fernao de Magalhaes)。日本では「マゼラン」の呼び方が浸透しています。

クリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)

クリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)イタリアのジェノバで生まれた船乗りのクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)は、14歳で船乗りになったといわれ、1476年に航海に出た際に、乗船が戦争に巻き込まれて沈没し、弟のバルトロメがいるリスボンに身を寄せたと言われています。1477年にアイスランドへ渡航し、1479年に結婚。1480年にギニアとゴールドコーストへ渡航しています。
リスボンでは、フィレンツェ共和国出身の天文地理学者、数学者パオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリ(Paolo dal Pozzo Toscanelli)が、1474年に唱えた、人類が住している陸地や海洋は全体として球体をなしているという「地球球体説」に影響され、西へと進み続ければインド・ジパングへと到達できるという考えに達します。ジパングは、イタリアの旅行家マルコ・ポーロの「東方見聞録」の中に「黄金の国」として描かれていました。
1484年、コロンブスはポルトガル王に計画を提案しましたが東回り航路発見が間近なことを信じる国王に拒否され、スペイン王室に援助を求めます。
カスティリア女王イザベラ アラゴン王フェルナンド2世当時のスペインはカスティリア女王イザベラとアラゴン王フェルナンド2世が夫婦である事で一つの国になりかかっていて、カスティリアを夫婦共同統治、アラゴンはフェルナンド2世の単独統治としていました。 カスティリア女王イザベラは南部に残るイスラムのグラナダ王国を半島から最終的に排除する国土回復運動(Reconquista)を抱え、アラゴン王フェルナンド2世は商湾バルセロナを抱えイタリア半島への影響力をフランス王と競っていました。 1492年に、スペイン王国がグラナダを陥落させてナスル朝が滅びスペインが統一します。イサベラ女王はコロンブスの願いを了承し、同年8月3隻の船を120人の乗組員でパロス港を出発し、10月12日バハマ諸島グァナハニ島、現在のサン・サルバドル(San Salvador)島に到達し、西欧人による新大陸発見を成し遂げます。4次に渡る航海でカリブ海一帯を探検、中米および南米大陸をのぞむところまで到達します。
コロンブスは、この島をスペイン語で「サン・サルバドル(San Salvador)」「聖なる救世主」と名づけ、「インド」に到達したと誤解し、先住民のアラワク人をインディオ(indio)「インド人」と呼んだそうです。 インディオは、英語のインディアン(Indian)に引継がれます。

アメリカ(America)

1492年、当時ポルトガルが東回り航路で、東アジア全体を指す「インド」を目指していたのに対し、西回りで「インド」に到達する事を計画したコロンブスは、スぺインのイサベラ女王の援助を得て、1492年10月12日、バハマ諸島グァナハニ島、現在のサン・サルバドル(San Salvador)島に到達し、西欧人による新大陸発見を成し遂げますが、コロンブスは「インド」に到達したと誤解しました。当時のヨーロッパ人はアメリカ大陸を「東アジア」であると考え、コロンブスは、西回り航路の発見者となり新大陸の発見者ではありませんでした。 アメリゴ・ヴェスプッチ(Amerigo Vespucci)イタリア、フィレンツェ生れの航海者で天文地理学者のアメリゴ・ヴェスプッチ(Amerigo Vespucci)は、コロンブスが発見した大陸はアジアではなく別の新大陸であることを主張し、1499年、1501年、1503年に北米東岸から南緯50度までを大陸に沿って航海し明らかにします。当時のマスコミは、アメリゴが新大陸の発見者であるかのように喧伝したそうです。1504年にはヴェスプッチの手記、「アメリゴ・ヴェスプッチの4つの航海(Quatre Navigations d’Americ Vespuce)」がヨーロッパの主要な言語に翻訳、出版されベストセラーとなります。
Cosmographiae Introductio title page1507年4月25日、フランス、ローレイン(Lorraine)の町、サンジエ(Saint-Die)で、ドイツの地理学者マルティーン・ヴァルトゼーミュラー(Martin Waldseemuller)とマッチアス・リングマン(Matthias Ringmann)により、「宇宙構造論(Cosmographiae Introductio)」が発表されます。本の完全なタイトルは、「Cosmographiae introductio cum quibusdam geometriae ac astronomiae principiis ad eam rem necessariis. Insuper quatuor Americi Vespucii navigationes. Universalis Cosmographiae descriptio tam in solido quam plano, eis etiam insertis, quae Ptholomaeo ignota a nuperis reperta sunt.」 その中には、クラウディオス・プトレマイオス(Claudius Ptolemaeus)を継承し、アメリゴ・ヴェスプッチの手記、「アメリゴ・ヴェスプッチの4つの航海」の情報を織り込んだアメリカ大陸の一部が描かれた、始めての地図が掲載されていました。 それは、約460mm×620mmの木彫から印刷された12セクションの世界地図と、多円錐図法(interrupted normal polyconic) 経度を30度ごとに切断して12の舟底型を作り、それぞれを正距多円錐図法で投影して並べた、多円錐図法(interrupted normal polyconic projection)の世界地図で、各舟底型を切り取って約100mmの球体に貼り付ければ、地球儀を作ることができるものでした。
リングマンが翻訳を編集し、ヴァルトゼーミュラーが地図を作成しました。リングマンは、ヴェスプッチの手記、「アメリゴ・ヴェスプッチの4つの航海」のフランス版を読みベスプッチが新世界を発見したと誤解します。

「There is a fourth quarter of the world which Amerigo Vespucci has discovered and which for this reason we can call 'America' or the land of Americo. ・・・・・・・We do not see why the name of the man of genius, Amerigo, who has discovered them, should not be given to these lands, as Europe and Asia have adopted the names of women.」 「アメリゴ・ヴェスプッチが発見したアメリカと呼ぶことができる、世界の1/4のアメリコ大陸があります。・・・・・・・私達は、ヨーロッパとアジアが女性名詞を採用していることから、それらを発見した天才、アメリゴの男性名詞は、これらの土地に与えられるべきではありません。」

当時、アジア大陸は「Asia」ヨーロッパ大陸は「Europe」で共に女性名詞でした、アメリゴのラテン語名「Americus Vespucius」を女性名詞化してアメリカ「America」となったようです。この本もまたベストセラーとなり、アメリカという名称はヨーロッパに普及します。バルトゼーミュラーが後で自身の誤りを指摘し、後の地図では新大陸の発見者としてコロンブスの名前を含め、南アメリカを「テラ・ノヴァ(Terra Nova)」と名付けましたが「アメリカ」はすでに確立され、バルトゼーミュラーの後継者は「アメリカ」を使い続けたようです。
ヴァルトゼーミュラーとリングマンのアメリカは、それ自身の狭い地峡による完全な大陸で、海のそばのアジアとは分離されていました。これは、当時の科学者には受け入れられませんでした。そして、1513年スペインの探検家バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア(Vasco Nunez de Balboa)によるパナマ地峡横断により、9月25日にアメリカ大陸が2つの大海に接する大陸であることが明らかとなります。

(picture all from Wikipedia)



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