pichori


このページは本田技研の創業者、本田宗一郎氏と本田技研工業の歩みを記したものです。(以下敬称省略)

序論(Introduction)

本田宗一郎(ほんだ そういちろう 1906年~1991年) ホンダ(本田技研工業)創業者。静岡県生まれ。尋常高等小学校卒業後、東京、本郷の自動車修理工場で丁稚奉公。浜松で自動車修理業として成功、メーカーを志し、エンジンやピストンリングの研究を始めます。終戦後、本田技術研究所を個人創業し、自転車に小型エンジンを載せた通称「バタバタ」を発売。1948年(昭和23年)、本田技研工業(ホンダ)を創立。オートバイ「ドリーム号」、スーパーカブ号」などを次々に開発、発売し、2輪車では世界のトップメーカーとなります。4輪車にも進出、欧米でいち早く現地生産を開始。排気ガスを抑えたCVCCエンジンを開発します。1973年(昭和48年)、社長を退きます。

内容(Contents)

生い立ち

  • 1906年(明治39年)11月17日、静岡県磐田郡光明村(現・天竜市)で父儀平、母みかの間に生まれた長男でした。父親は鍛冶屋で小さいころから、ふいごと槌の音とともに育った環境で、早くから機械いじりに興味を持ち、家から4キロほど離れたところの精米屋の発動機をみることが好きだったそうです。
  • 1912年(明治45年)6歳、尋常小学校(鵬朝小学校)時代は、機械などの理科が好きだったそうで、頭ではよくわかり先生に聞かれれば答えられたそうですが、試験の成績は良くなかったそうです。
  • 1918年(大正7年)12歳、尋常小学校をおえると、二俣の高等小学校に進み、高等科を卒業するころに父儀平は鍛冶屋から自転車屋に商売替えしていていました。当時とっていた「輪業の世界」という雑誌の広告欄に「アート商会」という東京の自動車修理工場の求人募集広告が目につきます。 前から自動車修理工場で働いてみたいという希望をもっていた。宗一郎はさっそく弟子入りしたいむねの手紙を出すと、「使ってやるから上京しろ」という返事が来、母みかは賛成しませんでしたが、父儀平は納得くしてくれたそうです。

自動車修理で独立

  • 1922年(大正11年)、16歳で二俣尋常高等小学校(現在の中学校に相当)を卒業と同時に、東京の本郷湯島五丁目にあった自動車修理工場、アート商会の主人、榊原備三のもとで見習い奉公を始めます。 榊原郁三は、経営者でありエンジニアでもありました。修理業にとどまらず、ピストンの製造までを手掛けた企業家でもありました。本田宗一郎は、尊敬する人物に必ず、榊原郁三の名を挙げたそうです。アート商会には世界中のさまざまなメーカーのクルマが修理に持ち込まれ、宗一郎にとっては格好の勉強場所だったようです。
  • アート商会1928年(昭和3年)、22歳で郷里に近い浜松に「アート商会浜松支店」をのれん分けしてもらい独立します。 他の修理工場では直らなかった車が、アート商会で直るという評判がたちはじめ、仕事は軌道にのり、その年の暮れには80円の利益が出そうです。そのと き一生のうちになんとか1,000円貯めようと決心したそうです。当時はトラックも乗用車も車輪のスポークはだいたい木製でした。そこで鋳物製のスポークを考案し博覧会へ出し好評を呼び、インドへも輸出されたそうです。
  • 1931年(昭和6年)25歳のときには、毎月1,000円以上の利益が出るようになり、従業員は50人ぐらいに増え、工場も拡張されました。
  • 1933年(昭和8年)、27歳で磯部さち夫人と結婚。

ピストンリングの製作

  • 1934年(昭和9年)、28歳で「いくら技術が優れていても、東京や外国からは誰も修理の依頼は無い」と製造業への業態転換を決意し、ピストンリングの製造を開始します。
  • 1936年(昭和11年)7月31歳、東京の多摩川べりで開催されていた全日本自動車スピード大会に出場し、ゴール寸前にコース上に出てきた修理中の車に120キロの速度で接触し横転、重傷を負います。
  • 1937年(昭和12年)31歳、ピストンリングの制作がうまくいかず、浜松高工(現・静岡大学工学部)の教授を訪ね作ったピストンリングを分析してもらい、シリコンが足りないことがわかります。自分には鋳物の基礎知識が欠けているためだと気づき、鋳物の基礎知識を学ぶため浜松高等工業機械科(現静岡大学工学科)の聴講生となって基礎から勉強を始めます。
  • 1939年(昭和14年)33歳、アート商会浜松支店を従業員に譲渡し、東海精機重工業(現・東海精機株式会社)社長に就任します。
  • 1940年(昭和15年)34歳、ピストンリングをトヨタ自動車や中島飛行機に納入し、最盛期には従業員が2,000人を超えるまでに成長したそうです。
  • 1941年(昭和16年)12月8日35歳、日本は太平洋戦争に突入しします。
  • 1942年(昭和17年)36歳、長男、博俊(無限代表取締役)誕生。東海精機重工業にトヨタから出資を受け、同社の社長に石田退三を迎え、自らは専務に退きます。
  • 1945年(昭和20年)10月39歳、三河地震により東海精機重工業浜松工場が倒壊。東海精機重工業の株を全て豊田自動織機に45万円で売却します。

原動機付き自転車の製造

  • 1946年(昭和21年)9月、40歳で浜松市に織物機械を作る目的で、本田技術研究所を設立しますが、織物機械はあきらめます。同年、友人の家で、たまたま知人から預かっていた旧陸軍の三国商工(現・株式会社ミクニ)製六号無線機用発電エンジンに出会います。これを見た宗一郎は、これを自転車用の補助動力に使うことを思いつき、陸軍からエンジン500台を払い下げを受け補助動力付き自転車を発売します。補助動力付き自転車は評判となり500台のエンジンも底をついてしまいます。
  • hondaA1947年(昭和22年)7月41歳、2ストロークエンジンを自社生産とした「MODEL A」を発売します。通称「バタバタ」と呼ばれヒットします。当初の生産台数は200~300台でしたが、すぐに1,000台となります。
  • 1947年(昭和22年)、河島喜好(かわしまきよし)19歳が入社。11月には浜松市野口町に工場を購入し、本格製造が始まりました。量産効果をアップするためエンジンはアルミダイキャストで作られました。
  • 河島喜好(かわしまきよし):1947年、浜松高等工業学校(現、静岡大学工学部)機械科卒業後、本田技術研究所に入社。1965年にはホンダF1の監督を務め1971年に本田技術研究所の社長に就任します。1973年10月に本田宗一郎の後を受け、本田技研工業代表取締役社長に就任。1983年、後輩の久米是志に後を譲って社長を退任します。
  • 1948年(昭和22年)2月には「MODEL A」による「遠乗り会」を浜松-沼津間で行い、その成功が評判となります。

本田技研工業株式会社を設立

  • 1948年(昭和23年)9月24日42歳、浜松市板屋町257番地で資本金100万、従業員20人で本田技研工業株式会社を設立。二輪車の研究を始めます。
  • hondaD1949年(昭和24年)43歳、藤沢武夫(ふじさわたけお)39歳が入社し経営担当となります。初の自社設計フレーム98cc2サイクル単気筒エンジンを搭載した「DREAM D」の生産が開始されます。公称最高速度50km/hでした。
  • 藤沢武夫:1910年、東京市小石川区(現・東京都文京区)に生まれます。旧制京華中学校を卒業後の1934年から鋼材小売店に勤め、1939年に切削工具の製作会社「日本機工研究所」を設立します。その後、空襲が激しくなり福島に疎開します。戦後は、そのまま福島で製材業を始めます。 中島飛行機に勤めていた竹島弘(たけしまひろし)の紹介で1949年8月に本田宗一郎と出会い、10月に上京、ホンダの常務に就任し、財務並びに販売を一手に取り仕切るようになります。
  • 1950年(昭和25年)3月44歳、本田技研東京営業所が京橋に完成し、9月、北区上十条の東京工場が稼働を開始します。
  • hondaE1951年(昭和26年)3月45歳、空冷4ストローク、146cc、OHV単気筒エンジンを搭載した「DREAM E」を発売します。公称最高速度は75km/hでした。テストはドリームDができなかった箱根越えで、テストライダーは河島喜好でした。テストは雨の中行われ、「DREAM E」はハイペースで箱根の坂を登り、何のトラブル無くテストは成功します。以後1952年の「DREAM 2E」、1953年の「DREAM 3E」、1954年の「DREAM 4E」、1955年の「DREAM 6E」と改良が進みます。

  • カブF型1952年(昭和27年)46歳、自転車用補助エンジン「CUB F」空冷2サイクル単気筒、排気量50cc、混合燃料、回転数3600rpmで1馬力を発売。エンジン搭載位置を後輪側面とし、駆動系統は全て後輪回りに集結した構造で、取り付けが容易となりました。ダイキャストの多用で生産性も向上させています。販売方法は、日本全国の自転車店に取り扱いを勧めるダイレクトメールを送る方法や、段ボール箱詰め発送を採用した拡販手段が用いられたそうです。

浜松から東京新社屋に本社を移転

  • 1953年(昭和28年)47歳、東京・八重洲に二階建て社屋を建設、浜松から東京に本社を移転。埼玉・大和工場、浜松工場を開設。
  • 1954年(昭和29年)、英国マン島T・Tレース出場宣言。
  • 1955年(昭和30年)、2輪者生産台数日本一達成。
  • 1957年(昭和32年)、株式を東京証券取引所に上場。
  • スーパーカブC100型1958年(昭和33年)、「SUPER CUB C100」発売。当時、小排気量のエンジンは2ストロークが主流でしたが、50cc空冷4ストロークOHVエンジンを開発し搭載します。クラッチ機構は、手を使わずに変速できる自動遠心クラッチが開発され片手の運転ができました。低床バックボーン式フレームに、樹脂素材を使ったレッグシールドやフロントフェンダーが採用され、現在まで世界的なロングセラーを記録しています。

マン島T.T.レースへ出場

  • 1959年(昭和34年)5月 マン島T.T.レース1959年(昭和34年)5月、マン島T.T.レース125ccクラスへ「RC141」「RC142」で、初出場します。
  • マン島TTレース(The Isle of Man Tourist Trophy Race)
    1907年から英国王領のマン島(Isle of man)で開催されているモーターサイクル競技で、公道を閉鎖しておこなわれます。1907年5月28日に第1回競技が開催され、15マイル1,470ヤード(25.484328Km)のセント・ジョン・ショート・コースを公道仕様のツーリング用モーターサイクルで10周しました。
    結果は、マッチレス(Matchless)・モーターサイクルに乗ったチャーリー・コリエルが4時間8分8秒/平均時速38.21mph(61.4930342km/h)で単気筒クラスと総合クラスで優勝。2気筒クラスはプジョーエンジンを載せたノートン・モーターサイクルでレム・フォウラーが4時間21分52秒/平均時速36.21mph(58.2743462)での優勝でした。
  • レース経過
    RC142MVアグスタ(MV Agusta)のタルキニオ・プロヴィーニ(Tarquinio Provini)を先頭に、同じくMVのカルロ・ウッビアリ(Carlo Ubbiali )、やや遅れて東ドイツ2ストロークMZを駆るルイジ・タベリ(Luigi Taveri)とホースト・フューグナー(Horst Fugner)、さらに続いてドゥカティ(DUCATI)に乗るマイク・ヘイルウッド(Mike Hailwood)らが上位グループを形成します。9周目には、4位のMZ、エルンスト・デグナー(Ernst Degner)、がリタイア、また7位争いをしていたMZ、デイブ・チャドウィック(Dave Chadwick)、とドゥカティ、ウオルター・ビラ(Walter Villa)が相次いで転倒し、「RC142」谷口尚己が6位、「RC142」鈴木義一が7位に浮上。「RC141」田中楨助はドゥカティ、トミー・ロブ(Tommy Robb)に競り勝って8位に。「RC142」鈴木淳三は、ピットインで15位まで順位を落としますが11位となります。

  • レース結果
    タルキニオ・プロヴィーニがルイジ・タベリを7.4秒差で振り切り、MV、MZ、ドゥカティが上位を占め、ホンダ勢は谷口の6位入賞に続いて鈴木義一7位、田中 楨助8位、鈴木淳三11位で完走。谷口は日本人として初の世界選手権レース入賞を果たし、ホンダはチーム賞も受賞しました。

    1 タルキニオ・プロヴィーニ(Tarquinio Provini) MVアグスタ(MV Agusta) 10 118.5km/h
    2 ルイジ・タベリ(Luigi Taveri) MZ 10 117.8km/h
    3 マイク・ヘイルウッド(Mike Hailwood) ドゥカティ(DUCATI) 10 116.2km/h
    4 ホースト・フューグナー(Horst Fugner) MZ 10 115.7km/h
    5 カルロ・ウッビアリ(Carlo Ubbiali ) MVアグスタ(MV Agusta) 10 114.6km/h
    6 谷口尚巳(たにぐち なおみ) Honda RC142 10 109.9km/h
    7 鈴木義一(すずき よしかず) Honda RC142 10 107.4km/h
    8 田中 楨助(たなか ていすけ) Honda RC141 9 105.7km/h
    9 トミー・ロブ(Tommy Robb) ドゥカティ(DUCATI) 9 104.7km/h
    10 パースロー(Purslow) ドゥカティ(DUCATI) 9 105.3km/h
    11 鈴木淳三(すずき じゅんぞう) Honda RC142 9 102.7km/h
  • 1959年(昭和34年)8月、ロードレース世界選手権(WGP)参戦を開始。第3回浅間火山レースで、125cc、250ccにて1~5位まで独占。
  • 1960年(昭和35年)3月、東京中央区八重洲6丁目5番地に本社新ビル完成。4月、鈴鹿製作所発足。
  • 1961年(昭和36年)6月、スーパーカブが生産台数100万台を達成します。 8月、二輪車の総販売台数、月間10万台を突破。
  • 1961年(昭和36年)6月、TTレース125cc「2RC143」、250cc「RC162」両クラスで1位から5位までを独占という快挙をなしとげ、同年10月にはロードレース世界GP125cc、250ccクラスでメーカーチャンピオンを獲得します。

    1961年6月12日 マウンテンコース(Mountain Course) 3 Laps (60.720km) 125cc

    honda_2RC143
    1 マイク・ヘイルウッド(Mike Hailwood) Honda 2RC143 1:16.58.6
    2 ルイジ・タベリ(Luigi Taveri) Honda 2RC143 1:17.06.0
    3 トム・フィリス(Tom Phillis) Honda 2RC143 1:17.49.0
    4 ジム・レッドマン(Jim Redman) Honda 2RC143 1:20.04.2
    5 島崎貞夫 Honda 2RC143 1:20.06.0
    6 ラルフ・レンセン(Ralph Rensen) Bultaco 1:21.35.2
    8 谷口尚己 Honda 2RC143

    マウンテンコース(Mountain Course) 5 Laps (188.65 Miles) 250cc

    HONDA RC162
    1 マイク・ヘイルウッド(Mike Hailwood) Honda RC162 1:55.03.6
    2 トム・フィリス(Tom Phillis) Honda RC162 1:57.14.2
    3 ジム・レッドマン(Jim Redman) Honda RC162 2:01.36.2
    4 高橋国光 Honda RC162 2:02.43.2
    5 谷口尚己 Honda RC162 2:07.20.0
    6 伊藤文夫 Yamaha 2:08.49.0

自動車メーカーへ

  • 1960年(昭和35年)7月、株式会社本田技術研究所設立を設立します。
  • 1962年(昭和37年)9月、三重県鈴鹿市に鈴鹿サーキットが完成。
  • 1962年(昭和37年)10月、第9回全日本自動車ショーでS360、T360、S500を発表。11月、鈴鹿サーキットで第1回全日本選手権ロードレース大会開催。
  • 1962年(昭和37年)11月、鈴鹿同サーキットで開催された第1回全日本選手権ロードレース大会では、ホンダのマシンが50cc、125cc、250cc、350ccクラスで優勝。
  • HondaT3601963年(昭和38年)8月、ホンダ初の4輪車、軽トラック「T360」/「T500」を発売。日本初の2バルブDOHCエンジン搭載車でした。元々「S360」用に開発されたエンジンを流用したため、高回転型で高出力。360ccで30馬力を誇りました。

  • HONDA S6001963年(昭和38年)10月、本田技研工業の四輪進出のための初のオープンスポーツカー乗用車S360は市販されず、排気量を増したエンジンを搭載した、「S500」が発売されます。その後、1964年3月に「S600」、1966年1月に「S800」が発売され、ホンダSシリーズと呼ばれます。

F1参戦

  • RA2711964年(昭和39年)8月、F1ドイツGPに「RA271」で初出場、13位完走。日本初のF-1マシンで、V型12気筒4バルブエンジンをオートバイと同じく横置にマウントし、220馬力/12,000rpmを発揮、後方には3気筒づつまとめられたエキゾーストパイプが4本。ボディはホンダで設計されたアルミ合金を主体としたモノコック構造。 当時は、パイプフレームのレーシングカーが主流の時代で、モノコック構造でレーシングカーを作っていたのは、フェラーリ、ロータス、BRMだったそうです。

  • 1965年(昭和40年)、S600がドイツのニュルブルクリンク国際82時間耐久レース、マラソン・デ・ルーテで優勝。
  • HONDA RA2711965年(昭和40年)10月、F1メキシコGPに「RA272」で初優勝。 翌年からエンジン排気量が3リッターとなることが決定していたためRA271の欠点を補った改良型、「RA272」が投入されました。498kgまで軽量化され、整備性向上のため、サスペンションはインボードからアウトボードに変更、エンジンの冷却効果を上げるため、ボディーカウリングやエアインテイクの改良、ハンドリング性能向上のためエンジンマウントを10cm下げた改良がされました。
  • 1966年(昭和41年)、WGP全クラスに参戦、全クラスを制覇。この年をもってロードレース世界選手権撤退。
  • HONDA N3601966年(昭和41年)10月、軽乗用車「N360」発表(1967年~1972年)。
    2ドアの2ボックスFFスタイルで、車内スペース意識した設計で、トランクスルー構造など、当時の軽乗用車としては広い車内スペースを備えていました。 エンジンは、360cc 強制空冷直列2気筒 SOHC 4サイクルで、オートバイ用の450ccエンジンをベースに開発されました。最高出力は31馬力/8,500rpmで最高速度は115km/hを公称していました。これは当時の軽自動車として最高レベルでした。
  • 1967年(昭和42年)4月、スーパーカブ生産累計500万台を達成。5月、N360軽自動車届出台数、発売以来3カ月で首位を獲得。

  • HONDA RA3001967年(昭和42年)9月、「RA300」F1世界選手権、第9戦イタリアGPでホンダF1、2勝目。
    エンジン排気量が3,000ccに変わって2年目のF1世界選手権で、シャシーの制作が間に合わなくイギリスのローラ社と協力してインディ・カー用T90を改造してHONDA製V12エンジンを搭載した車で出場。ドライバーは1967年からチーム入りした元ワールドチャンピオンのジョン・サーティース(John Surtees)。 水冷4サイクル90度V型12気筒DOHC、2,992cc、420馬力 / 11,500rpm、車両重量590kg。
  • 1968年(昭和43年)1月、二輪車生産累計1000万台を達成。軽四輪Nシリーズ、国内販売届出台数で首位に。
  • 1968年(昭和43年)7月、F1 第6戦 フランスGP(ルーアン)決勝。
  • HONDA RA301「RA301」は、RA300の発展モデル。新設計のシャシーにはマグネシュームが多量に使用され軽量化が推し進められ、総重量は530kgまで軽量化されました。エンジンはシリンダーヘッドを一新し、バンク外側吸気/内側排気から、一般的な内側吸気/外側排気に改められました。水冷縦置きV型DOHC、2,993cc、440馬力以上、重量:530kg。ドライバーは、ジョン・サーティース(John Surtees)でした。

  • HONDA RA302「RA302」は、空冷縦置きV型DOHC、2,987cc、430馬力以上/9,500rpm、重量:500kg。フォード・フランスからのエントリー。 空冷エンジンのためラジエターが不要となり低く薄いフロントノーズはウエッジ・シェイプの先駆けでした。モノコックシャシーを採用し冷却系の部品が不要になることで大幅な軽量化が期待され、マグネシウムを多用したさらなる軽量化が進められ、エンジンを上部の梁で吊る設計は、後のフェラーリも取り入れたものでした。ペダルは支点が下にあるオルガン式にするなど、新たな試みが各所に見られるマシンでした。高回転高出力の空冷3リッターエンジンはオーバーヒートに悩まされ、対策が進まないまま出走することとなります。ドライバーはジョー・シュレッサー(Jo Schlesser)
    J.シュレッサーは、練習走行から様々なトラブルに見舞われ、最後尾からのスタートとなります。雨の決勝レースとなった3周目、スタンド前を下り、ヌーヴォーモンドに差し掛かった所で、シュレッサーは衝突事故を起こしてしまいます。マシンは裏返しになり、飛び散った燃料に引火して炎上、彼はこの事故で他界しました。 1968年11月3日のF1GP最終戦メキシコGPを最後にホンダは、第1期F-1活動を休止します。このレース以降にルーアンでF1は開催されていません。

    1968年7月7日 フランスGP ルアン 392.52Km(6.542Km×60周)

    1 ジャッキー・イクス(Jacky Ickx) フェラーリ(Ferrari) 60 2:25:40.9
    2 ジョン・サーティース(John Surtees) ホンダ(Honda) 60 -01:58.6
    3 ジャッキー・スチュワート(Jackie Stewart) フォード(Matra-Ford) 59 1 lap
    4 ヴィック・クーパー(Vic Elford) BRM 58 2 lap
    5 デニー・ヒューム(Denny Hulme) マクラーレンフォード(McLaren-Ford) 58 2 lap
    6 ピアス・R・カレッジ(Piers R Courage) BRM 57 2 lap
    7 リチャード・アットウッド(Richard Attwood) BRM 57 3 lap
    8 ブルース・マクラー(Bruce McLaren) マクラーレンフォード(McLaren-Ford) 56 4 lap
    9 ジャン・ピエール(Jean-Pierre Beltoise) Matra 56 4 lap
    10 クリストファー・A・エイモン(Christopher A Amon) フェラーリFerrari 55 5 lap
    11 ジョセフ・シファート(Joseph Siffert) ロータスフォード(Lotus-Ford) 54 6 lap
    12 ペドロ・ロドリゲス(Pedro Rodriguez) BRM 53 7 lap
    13 ヨッヒェン・リント(Jochen Rindt) ブラバム(Brabham-Repco) 45 NF
    14 ジャックブラバム(Jack Brabham) ブラバム(Brabham-Repco) 16 NF
    15 ジョニーServoz(Johnny Servoz-Gavin) BRM 14 NF
    16 グラハムヒル(Graham Hill) フォード(Ford) 14 NF
    17 ジョー・シュレッサー(Jo Schlesser) ホンダ(Honda) 2 NF
    18 ジャッキーオリバー(Jackie Oliver) ロータスフォード(Lotus-Ford) 0 NF
  • 1968年(昭和43年)11月、4サイクル2気筒DOHC、「ドリームCB450」発売。最高出力45馬力、最高速度180km/h、リッター馬力(排気量10CCあたり1馬力)の出力でした。
  • cb7501969年(昭和44年)8月、4サイクル4気筒SOHC、「ドリームCB750Four」発表。最高出力67馬力、最高速200km/h、世界初の量産並列4気筒OHCエンジンを搭載したモデルでした。

  • HONDA 13001969年(昭和44年)10月、ホンダ初の4ドアセダン「H1300」発表。
    エンジンは空冷直列4気筒 SOHC 1,296ccでシングルキャブモデルは「77」と呼ばれ100馬力 175km/h公称、4連キャブモデルは「99」と呼ばれ115馬力 185km/h公称でした。三重県鈴鹿工場渡し現金価格は「77デラックス」が57.6万円、「99デラックス」が65.1万円でした。当時のトヨタ・クラウンが105馬力 155km公称で101.1万円、セドリックが100馬力 150km公称で96.3万円です。また当時少なかった4輪独立懸架のクロスビーム方式が採用されていました。(以下10月21日の報道関係者発表より。)

    発表会席上での取締役社長・本田宗一郎のあいさつ。
    『日頃、当社に対する深いご理解をいただき、厚く御礼申し上げます。本日発表の機会を得たHONDA1300により、当社の技術開発の基本的な考え方をご理 解いただきたいと存じます。このHONDA1300は、世界のどこの市場にも通用する国際商品をめざして開発を進め てきたものでございます。当社は『オリジナリティ』を経営の基本と考えており、どこの真似でもないホンダだけの独創的な商品開発こそ、新しい需要喚起の決め手であるとする一貫した思想を持っております。申請中の特許、実用新案は178件に及び、特殊空冷方式エンジン、ドライサンプ式潤滑方式、車室導入空気の清浄化対策、クロスビーム型後輪懸架装置等はその代表的なもので、当社の技術開発の具体的な表現であります。また『積極的安全対策』は、カーメーカーとしての社会的な責任であり、十分な余裕馬力「96馬力、最高速度175km」、意志のままの操縦性能「FF方式」、強力なブレーキ性能、疲れない居住性等にこれが表現されています。このニューマシンこそ、本格的な輸出商品であり、自由化対策であると確信しております。どうぞ十分なご批判をいただき、HONDA1300が新しい時代の期待に応えるよう、ご鞭撻をお願いする次第です。』

    本田技研究所所長・杉浦英男の概要説明。
    『HONDA1300の開発基本方針は、

    1. 世界のどこの市場にも通用させること。
    2. 積極的一次安全対策をとり入れること。
    3. 誇りをもって乗れる、乗りたくなること。
    これらを具体的に展開すると
    1. 5人分の座席空間に余裕をプラスし内部空間を作る。
    2. その内部空間を包む必要最少限の外部。
    3. しかも、その小ささを感じさせない高級なムードのデザイン、加えてホンダ独得の精悍なイメージ。
    4. あらゆる使用条件を満足させ得る動力性能。
    5. あらゆる使用条件における完壁な走行性能及び乗心地。
    この結果、2000ccクラスのパワー、1500ccクラスの居住性、1000ccクラスの経済性を兼備した車になった。これは新しい乗用車のカテゴリーを作るものと自負しています』

世代交代

  • 1970年(昭和45年)65歳、本田宗一郎は技術開発から引退を決めます。

    本田宗一郎は何よりも独創を重んじ、物まねを嫌いました。一番怒ったのはほかの会社のまねをしたり、他人を言い訳に使ったときです。
    技術においても経営においても、創造力こそカの源泉であり、創造力は見果てぬ夢から生まれます。夢を捨て、失敗を恐れたときの人間は創造力が乏しい。

       
  • 1970年(昭和46年)、創業以来の宗一郎と藤澤による指導体制から、4人の専務による集団指導体制に変更。
  • 1971年(昭和47年)、ホンダ・ライフ発売(1971年~1974年)。N360の後を継ぐ形で登場。新設計の360cc 直列2気筒 SOHC 4サイクル 水冷エンジンを搭載。
  • HONDA CIVIC1972年(昭和47年)、「CIVIC」発売、低公害のCVCCエンジン発表。アメリカの排ガス規制法であるマスキー法規制に世界ではじめて合格します。
  • 1973年(昭和48年)、本田技研工業、本田宗一郎社長、藤沢武夫副社長が退任し、取締役最高顧問に就任し、河島喜好が2代目社長に就任します。
  • 1974年(昭和48年)、ミシガン工科大学より名誉工学博士号を送られます。
  • 1976年(昭和50年)、アコード発売
  • 1977年(昭和52年)、環境と技術の調和のためにエコテクノロジーを提唱、本田財団を創立して、この主張の国際的展開をめざします。
  • 1979年(昭和54年)、WGP参戦を再開。500ccクラスでは4ストロークのNR500で参戦。
  • 1980年(昭和55年)、アメリカ機械学会より日本人としては50年ぶりにホーリーメダルを受賞します。F2へのエンジン供給を再開。
  • 1982年(昭和57年)、日本商工会議所副会頭、行革推進フォーラム代表世話人に。WGP500ccクラスに2ストローク・3気筒のNS500を投入。
  • 1983年(昭和58年)、本田宗一郎、藤沢武夫が取締役を退き、終身最高顧問になります。河島喜好が社長を退任し、久米是志が3代目社長に就任します。
  • 1985年(昭和60年)、WGPでフレディ・スペンサーがNSR500(2ストローク4気筒)で500ccクラスチャンピオン。250ccクラスとのダブルタイトルを獲得。
  • 1986年(昭和61年)、F1でWilliams Hondaとして初の年間優勝。
  • 1988年(昭和63年)12月30日、78歳で藤沢武夫死去。従四位勲三等旭日中綬章を追贈。
  • 1989年(平成1年)、自動車文化に貢献した人々を永遠にたたえるAutomotive Hall of Fame(ミシガン州)に、日本人としてはじめて殿堂入り。
  • 1990年(平成2年)、国際自動車連盟よりフェリー・ポルシェ(Ferry Porsche)、エンツォ・フェラーリ(Enzo Anselmo Ferrari)に次ぐ史上3人目のゴールデンメダル賞を受賞します。
  • 1990年(平成2年)、久米是志が社長を退任し、川本信彦が4代目社長に就任します。
  • 1991(H3)年8月5日、本田宗一郎、84歳で逝去。勲一等旭日大綬章。

    「手のひらの大きさや指のかたちをくらべて、右と左がこんなにちがう手もめずらしいだろう。満足な機械もなかった頃から、自動車の修理にはじまり、いろんなものをつくってはこわし、こわしてはつくってきた私の手である。右手は仕事をする手で、左手はそれを支える受け手である。だから、左手はいつもやられる」、「満足なのは小指だけ、別に深い意味はない」。

    『私の辛が語る』講談社文庫、『私の履歴書』日本経済新聞連載、他を引用


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