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序論(Introduction)

ムンティンルパ市(Muntin Lupa City)は、フィリピン首都圏の最南の都市でマニラから南に30Km、ハイウエイを車で40分位のところにあります。北はタギグ(Taguig)市、北西はニノイアキノ国際空港があるパラニャーケ(Paranaque)市、西はラスピニャス(Las Pinas)市、南西はカビーテ(Cavite)州のサン・ペドロ(San Pedro)とラグーナ(Laguna)州、東はラグナ湖に接していて、フィリピンのエメラルドとも呼ばれています。日本では、ヒット曲「あゝモンテンルパの夜は更けて」で知られているため「モンテンルパ」と言われることが多いようです
ムンティンルパはニュー・ビリビッド刑務所(New Bilibid Prison)のある所として知られています。ニュー・ビリビッド刑務所は、重犯罪者が投獄されたところで、その結果ムンティンルパ(muntinlupa)は日本の網走と同様に刑務所と同義になりました。
ムンティンルパの、アラヤ・アラバン(Ayala Alabang)地区は、フィリピンで最も高級な地域で、数多くの有名人が住んでいます。居住者の中には、元フィリピン大統領のフィデル・ラモス(Fidel Ramos)も住んでいるそうです。

内容(Contents)

ニュー・ビリビッド刑務所(New Bilibid Prison)

ニュー・ビリビッド刑務所(New Bilibid Prison)
ニュー・ビリビッド刑務所はムンティンルパ市にある刑務所で、日本ではモンテンルパ刑務所と呼ばれています。現在の建物は、1940年に建てられたもので、旧ビリビット刑務所は、1865年スペイン政権によりマニラのオレクエタ(Oroquieta)通りに建設され、1,127人の囚人を収容できたそうです。 1908年には、囚人のための寮や病院が建設され、施設内では大工職店が組織されていたそうです。囚人により作られた家具や手細工商品は小売りを通じてそれらの製品を売るか、または物々交換することができ、囚人は、収入を得ることができたそうです。(これは現在も続いているようです。)
増加する犯罪のため、フィリピン政府は1936年に新しい刑務所の工事を100万ペソの予算で開始し、1940年に完成し、1941年に「ニュー・ビリビッド刑務所(New Bilibid Prison)」と命名されます。(Picture from Wikipedia)
1945年(昭和20年)終戦当時、フィリピンには14万人の日本人が捕虜となっていました。1946年(昭和21年)のフィリピンの独立以後も150人のBC級戦犯がニュー・ビリビッド刑務所に服役していました。
日本が受諾したポツダム宣言第10條に基づき、極東国際軍事裁判所条例は戦争犯罪をA,B,Cに類型化しました。A項は平和に対する罪、B項は通例の戦争犯罪、C項は人道に対する罪についての規定で、各項該当者を各級戦犯と呼びました。A級のAは同条例の(イ)が(a)となった分類上の名称で、罪の重さではありません。
戦争指導者を対象としたA級裁判は東京、BC級裁判は中国をはじめ米英蘭仏豪フィリピンなどの関係7カ国が、それぞれの国の法規をもとに軍事裁判が行なわれ、被告は5,700人、うち1,000人余りが処刑又は獄中で死亡しました。ムンティンルパでは山下奉文大将以下17人が絞首刑で亡くなっています。

あゝモンテンルパの夜はふけて

あゝモンテンルパの夜はふけては、1952年に、渡辺はま子と宇都美清(うつみきよし)の歌で、ビクターレコードから発売されヒットした曲です。 当時、ニュー・ビリビッド刑務所に服役していた死刑囚の、代田銀太郎(しろた ぎんたろう)が作詞し、同じ死刑囚、伊藤正康(いとう まさやす)が作曲した曲で、戦争の記憶が薄れた日本人の心を動かす曲となりました。
終戦後、ニュー・ビリビッド刑務所に服役していた150人のBC級戦犯は過半数が死刑因で、中には明らかに無実の者もいたそうです。1949年(昭和24年)11月4日、真言宗の僧侶、加賀尾秀忍(かがお しゅうにん)は復員局からの依頼で、教誨師(きょうかいし)としてニュービリビット刑務所へ到着し、戦犯たちの悩みを聞き、相談にのる毎日を送ります。 1951年(昭和26年)1月19日、突如14人の死刑が執行され、59人の死刑囚を含む109人の戦犯となります。6ヶ月の任期以後も「同胞を見捨てて、自分だけどうして帰れよう」と戦犯除名の嘆願書を書き送るなどの活動を続けたそうです。政府からの支給は打ち切られ、資料には「無給の加賀尾秀忍は、戦犯たちからの残飯で食いつないだ」と記述されています。
彼は死刑囚、代田銀太郎(しろた ぎんたろう)に作詞を頼み、同じ死刑囚、伊藤正康(いとう まさやす)に作曲を頼みます。1952年(昭和27年)6月、歌詞と楽譜が渡辺はま子のもとに送られ、死刑囚達の作った歌は、ビクターでレコード化され、20万枚を超える大ヒットとなります。
  • 1952年(昭和27年)6月9日、戦犯在所者の釈放等に関する決議が国会で決議されます。
    講和が成立し独立を候復したこの時に当り、政府は、
    1. 死刑の言渡を受けて比国に拘禁されている者の助命
    2. 比国及び濠洲において拘禁されている者の速やかな内地帰還
    3. 巣鴨プリズンに拘禁されている者の妥当にして寛大なる措置の速やかな促進のため、関係諸国に対し平和條約所定の勧告を為し、或いはその諒解を求め、もつて、これが実現を図るべきである。
  • 1953年(昭和28年)6月27日、日本から500万人の戦犯釈放嘆願書がフィリピン外務省に届けられ、1953年(昭和28年)6月28日、「死刑囚、無期刑囚を全員釈放。死刑囚は無期に減刑して、日本の巣鴨に送還する」通達があります。日本政府は衆参両議院それぞれの本会議でフィリピン政府の措置に対して、感謝決議を行います。
  • 1953年(昭和28年)7月15日、加賀尾秀忍を含めた111人は、政府から支給された白ズボンと開襟シャツに着替え、日の丸を掲げた白山丸に乗り込んだそうです。
  • 1953年(昭和28年)7月22日8時30分、横浜港には、帰りを迎える2万8,000人の群衆が集まったそうです。帰国後、死刑囚たちは巣鴨プリズンに収容され、1953年(昭和28年)12月30日に全員釈放となります。
    そして国際的にも、サンフランシスコ講和条約第11条にもとづき関係11ヶ国の同意を得て、A級戦犯は1956年(昭和31年)に、BC級戦犯は1958年(昭和33年)までに赦免(しゃめん)し釈放されます。

「あゝモンテンルパの夜はふけて」の曲は、東京オルゴール株式会社設立者の吉田義人(よしだ よしひと)により、富士山をデザインした蒔絵のアルバム式オルゴールとなり渡辺はま子に2冊送られます。渡辺はま子は、1冊を加賀尾秀忍に送り、1953年(昭和28年)5月16日に加賀尾秀忍は、戦犯たちの釈放や減刑を請願するためフィリピンのキリノ大統領に面会し、渡辺はま子から送られたオルゴールを贈り、大統領は大変感激したそうです。

渡辺はま子は、1910年(明治43年)の生まれで、『支那の夜』『何日君再来』『桑港のチャイナ街』『蘇州夜曲』など、戦前から活躍した歌手。
宇都美清(うつみきよし)は、1928年(昭和3年)栃木県宇都宮市の生まれ。『火の鳥』『ああモンテンルパの夜は更けて』『浅太郎月夜』などがヒット、1960年代に入ってからは、作曲家として活躍。

あゝモンテンルパの夜はふけて

作詞 代田銀太郎・作曲 伊藤正康
唄 渡辺はま子・宇都美清
T
(男)モンテンルパの 夜は更けて
 つのる思いに やるせない
 遠い故郷 しのびつつ
 涙に曇る 月影に
 優しい母の 夢を見る
U
(女)燕はまたも 来たけれど
 恋し我が子は いつ帰る
 母の心は ひとすじに
 南の空へ 飛んでゆく
 さだめは恋し 呼子鳥
V
(女)モンテンルパに 朝が来りゃ
 昇る心の 太陽を
 (男)胸に抱いて 今日もまた
 強く生きよう 倒れまい
 (男女)日本の土を 踏むまでは

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