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フィリピンの硬貨 (Philippine coins)

1980年 25 PISO 1980年 25 PISO
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1980年 25 PISO

1980年に、マッカーサー生誕100年を記念して発行。材質(Material):92.5%銀(Silver) ●直径(Diameter):38.0mm ●重量(Weight):25.2g。
左 「IKASANDAANG TAONG KAARAWAN」「1880-1980」portraitダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)。
右 「REPUBLIKA NG PILIPINAS」「25 PISO」portrait1944年10月20日、マッカーサーのレイテ島上陸。


ダグラス・マッカーサーは、1880年、アーカンソー州リトルロックで生まれました。父のアーサー・マッカーサー・ジュニア中将は南北戦争の退役軍人で、名誉勲章を受章しています。フィリピンでは初代軍政総督を勤めた人物。1899年にウェストポイントアメリカ陸軍士官学校に入学、1903年に陸軍少尉で卒業します。卒業後、アメリカ陸軍の工兵隊少尉としてフィリピンに配属され、 1930年、アメリカ陸軍最年少で参謀総長に就任します。 1935年に参謀総長を退任し、初代大統領マヌエル・ケソンの依頼により、フィリピン軍の軍事顧問に就任し、1941年7月にルーズベルト大統領の要請を受け、現役に復帰してフィリピン駐屯のアメリカ極東軍司令官となります。
1937年12月にアメリカ陸軍を退役。後年、アメリカ陸軍に復帰してからもフィリピン軍元帥の制帽を着用し続けた事はよく知られています。
1941年7月にルーズベルト大統領の要請を受け、中将として現役に復帰してフィリピン駐屯のアメリカ極東軍司令官となり、アメリカが対日戦に突入後の12月18日付で大将に昇進します。
1941年12月8日に、日本軍がイギリス領マレーとハワイ州の真珠湾などに対して攻撃を行い太平洋戦争が始まると、ルソン島に上陸した日本陸軍と戦い、日本陸軍戦闘機の攻撃で自軍の航空機を破壊されると、人種差別的発想から日本人を見下していたマッカーサーは、「戦闘機を操縦しているのは(日本の同盟国の)ドイツ人だ」と信じた。 日本軍の進軍に対してマッカーサーは、マニラを放棄してバターン半島とコレヒドール島で籠城する作戦に持ち込みます。アメリカ軍は各地で日本軍に完全に圧倒され、救援の来ない戦いに苦しみ、マッカーサー自ら捕虜になりかねない状態でした。
3月12日、マッカーサーとケソン大統領は、家族や幕僚達と共に魚雷艇でミンダナオ島に脱出、パイナップル畑の秘密飛行場からボーイングB-17でオーストラリアに脱出します。 3月20日、オーストラリアへ脱出したマッカーサーは「アイ・シャル・リターン (I shall return」私は戻って来ると、スピーチしたことで知られています。
1944年のフィリピンへの反攻作戦については、アメリカ陸軍参謀本部では「戦略上必要無し」との判断でしたが、マッカーサーは「フィリピン国民との約束」の履行を理由にこれを主張します。ルーズベルト大統領は1944年の大統領選を控えていたので、国民に人気があるマッカーサーの意をしぶしぶ呑んだと言われているそうです。
マッカーサーレイテ島上陸1944年10月23日、マッカーサーはセルヒオ・オスメニャとともにフィリピンのレイテ島レイテ湾に上陸します。『メルボルンから東京までは長い道のりだった。長い長い困難な道だった。しかしこれで万事終わったようだ。各地域における日本軍の降伏は予定通り進捗し、外郭地区においても戦闘はほとんど終熄し、日本軍は続々降伏している。この地区(関東)においては日本兵多数が武装を解かれ、それぞれ復員をみた。日本側は非常に誠意を以てことに当たっているやうで、報復は不必要な流血の惨を見ることなく無事完了するであらうことを期待する』1945年8月31日の朝日新聞より。
1945年8月15日に日本は連合国に対し降伏し、9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で降伏文書の調印式を行ない、アメリカを中心とする連合軍の占領下に入ります。マッカーサーは1945年8月30日に専用機バターン号で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着し、以後1951年4月11日まで連合国軍最高司令官総司令部の総司令官として日本占領に当たります。横浜開港150年

(Photograph from Wikipedia)


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