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序論(Introduction)

サミュエル・コルト彼の母方の祖父はコネチカット州のハートフォードで最初の銀行を設立し、彼の父は、西インド諸島貿易で富を築いた裕福な家系に生まれたそうです。
しかし、彼が幼い頃、コルト家は経済的に苦しくなり、彼と兄弟たちは親戚の家に預けられます。10才〜12才の期間、彼はマサチューセッツ州にある父親の製糸工場で働きながら私立学校に通いました。彼は、化学と電気に興味を持つようになり、電流で火薬を爆発させて水面下の鉱山発掘などを行ったと言われています。

内容(Contents)

  • 1930年、26才のサミュエル・コルトは、父親に頼み海外に渡航するようになります。。彼はその航海の途中、船員の扱う巻き上げ機を見ていて、回転式拳銃を思いついたと言われています。それ以前にも回転式拳銃は存在しましたが、それは手で弾倉となる輪胴を回すもので、彼の発明はハンマー(撃鉄)を引き起こすことによって輪胴(シリンダー)が自動的に回転し、あとは引き鉄を引くだけで次弾が発射できるものでした。
    サミュエル・コルトは、このリボルバー・システムのパテントを取得するために1831年に渡航経験のあるボストンへ戻ります。父親からの金銭援助により、彼は2つのライフルのような長銃身プロトモデルを作り上げましたが、1作目は発射機能において失敗、2作目はシリンダに雷管仕切りがなかったため、連鎖着火を起こし失敗します。
    彼は、別な仕事によって生計を立てながら、リボルバーの開発を継続していくことを決意します。彼は、「ニューヨーク、ロンドンおよびカルカッタの有名なコルト博士」と自称し、3年間「実際的な化学者」としてカナダとアメリカを旅行して、亜酸化窒素(笑うガス)を使った実験デモンストレーションにより収入を得ていたそうです。
  • コルト・パターソン・モデルその後、サミュエル・コルトはリボルバーの改良のためにボルチモアのジョン・ピアソンを雇いますが、ピアソンは体調を崩し仕事が思うように進みませんでしたが、リボルバーは形になりました。サミュエル・コルトは、ピアソンの父親から1,000ドルを借りて、イギリスで特許を取得するためにヨーロッパへと渡ります。
    当時、大英帝国の威信はまだ健在で、イギリスでの特許が先進国のどこよりも権益として有効だったからです。サミュエル・コルトは、イギリスとフランスで特許を取得し、新しい形の彼の銃は、コルト・パターソン・モデルと呼ばれました。
    コルト・パターソン・モデルarrow
  • 1836年にアメリカ合衆国の特許U.S.Patent1,304を取得したサミュエル・コルトは、地元米国の議員によって援助を受けます。彼はまた、ダッドレー・セルデン(Dudley Selden)やニュージャージー州パターソンの特許兵器製造業会社グループに約200,000ドルを投資している他の数人のニューヨーカーたちの援助も取り付けることに成功します。
    U.S.Patent1,304pdf
    しかし、軍隊も火打ち石を用いる旧式銃に満足していて、軍を中心とする注文を確保することは困難でした。1837年にはネイティブ・アメリカンを征服しようと試みた軍部によって100挺のコルト・リボルバーが発注され納品されましたが、コルトは100挺あたり40ドルでカービン銃の受注を受けざるを得ず、会社は存続が立ち行かず、1842年9月に莫大な債務を背負って、Patent Arms Manufacturing社として知られているパターソン会社(Paterson company)は、その器材の多くを競売にかけ、倒産に至ります。
    サミュエル・コルトにはこれ以降も苦難が続きました。会計士だったサミュエル・コルトの弟ジョンが過剰防衛で男を殺害、正当防衛を主張しましたが裁判で認められず、絞首刑を宣告され、ジョンは獄中で自殺します。
  • サミュエル・フィンレイ・ブリース・モールス数年後、サミュエル・コルトはサミュエル・フィンレイ・ブリース・モールス(Samuel Finley Breese Morse)博士の知己となり、電気メッキ磁気電信の世界で彼はバッテリー会社を設立して共同研究を行います。
    サミュエル・コルトが作ったケーブルは水中を横切るように敷設しても電文を伝えることが出来、この魅力的な電信性能は、ワシントンからボルチモアにワイヤーを40マイル引くことの契約を成約させるに至りました。さらに、電信協会はコルトのこの新設備を利用してニューヨーク州ロングアイランドからニュージャージー州へ電信ラインを建設する契約をサミュエル・コルトと交わすこととなります。
    彼は、この電信事業により実業家としても大きく前進することとなります。
  • サミュエル・ハミルトン・ウォーカー1840年代初め、初期のコルト・パターソン・モデルは、ドラゴンフォース(Dragoon forces)やテキサスでインディアンと戦うことに従事していたテキサスレインジャーズが、インド軍隊を破る際に使用され、コルトの信頼性は大変高まっていました。
    メキシコ戦争が勃発しアメリカ陸軍に大量のコルトピストルが使用され、同戦争に参加していたアメリカ陸軍のサミュエル・ハミルトン・ウォーカー(Samuel Hamilton Walker)大尉は、より強力な火器の開発を目指してサミュエル・コルトとの共同作業を始めます。
  • コルト モデル1847 ウォーカー アメリカ合衆国軍需品部は新しく設計されたリボルバーのうちの1000丁を注文してきました。サミュエル・コルトはそれを「ウォーカー」と呼びました。突然、彼は工場なしで銃事業に戻りましたが、コネチカット州に工場を持っていた、綿繰り機で有名なイーライ・ホイットニーの息子イーライ・ホイットニー、Jr.( Eli Whitney, Jr.)の協力で、注文品は1847年中頃までに完成して、出荷されます。開拓市民にとってはサミュエル・コルトの銃はなくてはならないものとなりつつありました。
    コルト モデル1847 ウォーカーarrow
    コルト・モデル1851・ネイビー コルト社製のパーカッションリボルバー、M1851(Colt Model 1851)は南北戦争で大量に使用され、サミュエル・コルトの銃器は爆発的な量が生産されるようになります。しかし、サミュエル・コルト自身は、肺炎により南北戦争の最中の1862年に47才で亡くなります。
    M1851(Colt Model 1851)arrow

参考
S. Grant's:The Colt Legacy
COLT HISTRY (http://www.coltsmfg.com/cmci/history.asp)



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