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序論(Introduction)

1882年のブローニング・兄弟会社・銃器製造所1885年1月23日、雪のユタ州オグデンで、ジョン・モーゼス・ブローニング(John Moses Browning)は誕生しました。ジョンの父ジョナサン・ブローニングはイリノイ州ノーブーからユタ州までを移動した、モルモン教徒の移住者のひとりでした。 ジョナサン・ブローニングは1852年にオグデンで銃砲店を開きます。父ジョナサンには3人の妻がいました。ジョンは22人目の子供で6歳のときには、父の仕事場の中に小さな作業台をもらい、早くから銃器製造所の中で成長し、10才のときには弟のマット(Matt)に廃材で銃を作ったそうです。1879年、ジョンはレイチェル・テレサ・チャイルドと結婚し、同年、彼の父が他界します。ジョンは父の銃砲店を引き継ぎ兄弟と共に働き、同年、彼の最初の設計のシングル・ショット・ライフルのU.S.Patent220,271を取得します。 1880年、ジョンはオグデンでブローニング・兄弟会社を設立し、約600丁のシングル・ショット・ライフルを手作りで製作します。しかし、製品をマーケティングするための販売経路が貧しかったため、需要は伸びず、ビジネスにおいて拡大することができませんでした。
U.S.Patent220,271pdf

内容(Contents)

ブローニングとウインチェスター社(Browning and Winchester company)

オリバー・ウィンチェスター(Oliver Winchester)ウィンチェスター社はオリバー・ウィンチェスター(Oliver Winchester)により創業され、もともとは開拓民の洋服などを販売していた企業と言われています。1857年に、武器製造工場を買収し、1866年コネチカット州ニューヘイブンにウィンチェスターリピーティングアームスカンパニーを設立、ライフル銃などの武器製造を始め、後にジョン・モーゼス・ブローニングと提携し、レバーアクションライフルを開発します。
1883年、ウィンチェスター社のセールスマン、アンドリュー・Mc・オウスランド(Andrew Mc Ausland)は、ジョン・モーゼス・ブローニングのシングル・ショット・ライフルを手にする機会があり、オウスランドはそれを購入し、ウィンチェスター本社に送ります。それを見たウィンチェスター社の副社長、T.G.ベネット(T.G.Bennett)は6日後に自らユタ州オグデンを訪れ、8,000ドルで銃を生産する権利を購入したそうです。
1883から1902年までに、ジョン・ブローニングはウィンチェスターのために多くの銃を設計しました。モデル1895のリーフレット1879年にU.S.Patent220,271を取得した、シングル・ショット・ライフルはModel 1885として成功を収め、33の異なる弾薬仕様で製造され、1920年に生産中止されるまで、140,000挺が生産されます。
1900年においてウインチェスター社のハンティング用レバーアクションおよびポンプアクションライフルの75パーセントがブローニングの設計でした。ウィンチェスター社はジョン・モーゼス・ブローニングに固定給は支払わず、マーケットに導入するつもりが全くない設計に対しても、ブローニングから要求された代価を支払いました。それにより、ブローニングの設計がライバルに渡り、マーケットにおいて競合製品となることを妨ぐことができました。この時代のブローニングの設計の34の開発品は量産されませんでした。
1900年12月にブローニングは、反動利用式セミオート散弾銃の特許U.S.Patent659,507を取得します。1902年1月、ブローニングは、反動利用式セミオート散弾銃の売り上げ配分を要求しましたが、社長に昇格していたT.G.ベネットは、直接の売り上げ配分を支払うつもりがなかったため、ブローニングとウィンチェスターの共同事業は終了します。 ブローニングはレミントン・アームス社(Remington Arms)に話しをしますが、レミントン社の社長は心臓発作で急死します。
U.S.Patent220,271pdf

ブローニングとファブリックナショナル社(Browning and fabric National company)

ファブリックナショナルアームス社はベルギーのリエージュにある銃器製造会社で、1897年、FN社(ファブリックナショナルアームス社)のコマーシャル・ディレクターのハート O. バーグ(Hart O. Berg)はブローニングと新しい契約の交渉をするためベルギーから、コルト社を訪れていました。同年7月17日、ブローニングはFN社と、口径7.65mmブローニング(.32ACP)のセルフローディングピストルを、アメリカ国外の全てのマーケット向けに製造することを許す契約を結びます。 FN ブローニングM1900 この銃はモデル1900として知られていて、製造は1899年から1909年までに500,000挺が製造されました。ベルギー陸軍は1900年にはすでにこのピストルを正式採用していました。ブローニングとFN社の間の共同事業は、1926年のブローニングの死まで続く緊密な共同事業の始まりとなります。
ブローニング オート51902年、ブローニングは反動利用式セミオート散弾銃のプロトタイプ、オート5をプレゼンテーションし、FN社とのライセンス契約を結びます。後に、アメリカでの製造と販売をレミントン・アームス社(Remington Arms)と契約しレミントンM11となります。ブローニングは、新しい会社ブローニングファイアーアームズ カンパニーで反動利用式セミオート散弾銃オート5を販売するため10,000挺を注文します。そのとき以来FN社は300万挺を越える反動利用式セミオート散弾銃オート5を製造します。後に、FN社の要望により、銃のブランド名は「ブローニング」となりブローニングの名前は、銃器製造においての世界的ブランドとなります。

ブローニングとコルト社(Browning and Colt company)

コルトモデル1900 コルトファイヤーアームズ株式会社は、コネチカット州 ハートフォードにある銃器製造会社で、1891年、コルト社はアメリカ軍の要請でガス利用、空冷/水冷方式の機関銃の開発をジョン・ブローニングと始めます。1985年にコルト・ブローニングマシンガンとして完成し1897年にはアメリカ海軍に納入されます。同年パテントが取得された.38口径のガス圧ローダー製造のためのライセンスを手に入れます。しかし、これは市場には出ませんでしたが、この頃からコルト社とブローニングとの緊密な関係を構築していくこととなります。
ブローニングは、1897年にU.S.Patent580,924を取得します。このパテントブローニングによって商業的な生産はされませんでしたが、コルトモデル1900の基本パテントとなります。モデル1900のリコイルローダーはアメリカにおいて初めてマーケットに登場したセルフローディングピストルでした。後の口径.45ACPのモデル1911の基礎となった銃でもあります。
ブローニングはこのリコイルローダーをすでに1905年に設計していて、このためのパテントは1911年および1913年に、U.S.Patent984,519およびU.S.Patent1,070,582として取得しました。このモデルはブローニングによる最も有名な開発品と言えます。コルト社は1905年に生産を始め、1906年に最初の銃がマーケットに登場しました。1909および1910年にはいくつかの変更が構造に加えられ、1911年3月29日に、アメリカ政府がこのモデル1911を軍に制式採用しました(詳しくはトライアルへ)。
1911年から第一次大戦開始までに、約100,000挺が製造され、戦時中にはコルト社およびレミントン社が510,126挺を製造しましたが、大部分はコルト社によって製造されました。第二次大戦中、約180万挺のモデル1911が製造されました。主なメーカーはコルト、イサカ、レミントン・ランド、ユニオンスイッチ・アンド・シグナル・カンパニーでした。1945年までに総数で約270万挺が製造されることになります。1923年からこのモデルは、いくつかの小さな変更が導入された後、モデル1911A1という名前に変わります。
U.S.Patent580,924pdf U.S.Patent984,519pdf U.S.Patent1,070,582pdf

ブローニングのハンティングガン(Hunting gun of browning)

ジョン・モーゼス・ブローニングとオートマチック散弾銃ジョン・モーゼス・ブローニングはモデル1887によってレバーアクションショットガンを開発しました。この銃はモデル1901としてニトロ弾薬用に設定されてマーケットに登場しました。
ポンプアクションショットガン1897はアメリカで非常にポピュラーになり、常に新しいバリエーションで1957年まで製造され、総生産数は124万挺を越えていると思われます。
世界初のセルフローディングショットガンは、オート5の名で有名になりました。すでにその最初の年に10,000挺がマーケットにおいて売られ、ブローニングはこの構造で4つのパテントを取得しました。この銃は口径12、16、20、そして12番マグナムで製造され、メーカーに含まれるのは特にFN、ブローニング、レミントンで、この銃は今もなお製造されています。
1906年、レミントンからブローニングによって設計された最初のセルフローディングライフルであるモデル8が、当時強力な弾薬だった.35レミントンまたは.32レミントン仕様で登場しました。この銃は1910年からはFNでも製造されました。
上下2連ショットガンがブローニングの1926年11月26日における死の前の最後の開発品となりました。このパテントは1926年に取得されました。FNが初めてこのブローニング上下2連ショットガンを製造したのは1930年のことでした。この銃はまだダブルトリガーを装備していましたが、ブローニングの息子Valは後に切り替え可能な単一トリガーを設計し、今日まで数多くのモデルバリエーションがハンターおよびスポーツショットガンシューター用にマーケットにもたらされました。

参考
『What is the historical timeline for Browning』
COLT HISTRY (http://www.coltsmfg.com/cmci/history.asp)



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